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「妹の精神状態は悪化する一方で、周囲からは気が違ったのではと罵られるまでになりました。そこで妹は、当時自分の世話係だった使用人の雪吹(ふぶき)夫妻に(ひょう)を預けることにしたのです」  むろんのこと、それは彼女一人の決断であって、亭主である氷室(ひむろ)家の当主にも親族たちにも内緒で行ったことだったらしい。彼女は生まれたばかりの(ひょう)を邸内で唯一信頼が置けた雪吹(ふぶき)夫妻に託し、この日本を出て海外に逃げて欲しいと懇願したそうだ。当時所持していた有り金全てを雪吹(ふぶき)夫妻に渡して、それで(ひょう)を育てて欲しいと頼み込んだのだという。 「雪吹(ふぶき)夫妻は人の好い若夫婦で、妹と年も近かった。特に嫁さんの方は妹の専属メイドとして毎日側にいた為に信頼も厚かったようです。快く妹の頼みを聞き、赤子だった(ひょう)を連れて日本を出ました。そうして彼らの子供として(ひょう)を育ててくれたわけです。尤も、ひとえに海外といってもどの国に彼らが飛んだのかということは妹と雪吹(ふぶき)夫妻以外知る由もなかった……。この香港に流れ着いたことを私どもが知ったのはだいぶん後になってのことではありましたが。とにかく妹が秘密裏に勝手なことをしたとして、氷室(ひむろ)のご当主はえらい剣幕で激怒しましてな。もちろんのこと親族たちも黙ってはおりませんでした。奴らの本音としては嫡子など消えてくれた方が都合がいいにも関わらず、身勝手極まりないことをしでかしたと言ってはここぞとばかりに妹を責めました」  陰湿な嫌がらせに耐え切れずか、ほどなくして彼女はこの世を去ったそうだ。  それから二十年が経ち、高齢となった氷室(ひむろ)の当主――つまりはこの男の妹の亭主であるが――彼もまた大往生でこの世を去ったという経緯らしい。 「氷室(ひむろ)が亡くなったことによって遺族の間では当然ですが遺産のことで揉めましてな。そこで私どもは雪吹(ふぶき)夫妻と(ひょう)の行方について手を尽くして調べた次第なのです。運良くこうして(ひょう)が健在でいてくれたことが分かったので――それならばあの子にも正当な氷室(ひむろ)家の継承人として遺産の一部でも継がせてやりたいと思ったわけです」 「遺産の一部――とな」  一部――。伯父というこの男はつい口を滑らせてしまったようだが、(ひょう)に遺産が入ったならばやはり自分たちがその殆どをせしめるつもりでいるのだろう。なんだかんだと上手いことを並べ立ててはいるが、(ひょう)のことを思いやるというよりは単に金蔓として使いたいのは明らかだ。  (イェン)はすっかり呆れてしまった。 「要は(ひょう)を旗印にして、あんたらに入るだろう遺産を増やしたい――そういうことだな?」 「旗印だなどと……それこそお言葉がお悪い。私どもは純粋にあの子の為を思ってですな」  男曰く、(ひょう)がいようがいまいが自分たちとて親族に当たるわけだから、相当な遺産が手にできるのだと力む。黙っていても何ら困ることはないが、それでもこうしてわざわざ嫡子たる(ひょう)の為に尽力してやっているのだと言いたいのだろう。

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