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「冰 の為――とな。まあ、この際それがあんたらの本心だとしよう。だが、冰 は既にこの俺と婚姻を交わしている。つまり、雪吹 であれ氷室 であれ、今はこの俺――周焔 の連れ合いであり、周 家の一員だ。正直に言ってしまえば遺産などは必要ない。冰 のこと云々は気にせずに、あんたらが貰うべく額を受け取ればいいと思うが――?」
「必要ないって……! ちょっと待ってください周 殿! 氷室 家の財産ですぞ。そんじょそこいらの遺産とはわけが違うのです! 莫大な財産をみすみす放棄しようと言われるのか! 冰 が遺産を手にすれば少なからずあなただって潤うのですぞ」
「そうよ! いくら配偶者だからって……冰 の意見も聞かない内から遺産を放棄しようだなんて! 第一それじゃ冰 が気の毒とは思いませんの!?」
二人は必死だ。だが焔 はまるで動じなかった。
「莫大な遺産だか何だか知らんが、そんなものが無くとも冰 には決して不自由はさせん。逆に――財産争いなどに巻き込まれて冰 が煩わされることの方が不本意だ。悪いがこの話はこれまでだ。万が一、氷室 家がどうこう言うのであれば、″周冰 ″は遺産を放棄すると伝えていただきたい」
「……周冰 ですって?」
「そうだ。冰 はこの俺に嫁いだ。ファミリーの掟に従い、既に周 姓に入ったのだ」
もう雪吹 ではないし、むろんのこと氷室 でもない。わざわざ冰 を広東語読みの″冰 ″と言ったのもその為だ。きっぱりとした態度で焔 は話を蹴った。
「そんな……ッ! お待ちになって! 周 さん! 周焔 さんッ」
残された夫婦は必死に焔 を呼び止めたが、彼が再び振り返ることはなかった。
◇ ◇ ◇
「ク……ッ、話の分からないお方だ……。我々に……あの莫大な財産を諦めろとぬかすか……。やはりマフィアというだけあってそう簡単にはいかんようだな……。まるでこちらの腹の内を見透かしているような言い方だ……。あやつには我々が冰 に遺産を渡すわけもないと分かっているようだ」
「あなたが悪いのよ! 遺産の″一部″だなんて口を滑らせたりするから!」
「仕方ないだろう……。あの周焔 とかいう男、若造ではあるが侮れないオーラが全身から滲み出ていた……。あの男と話している間中、私は蛇に睨まれた蛙の気分だったのだぞ……! それでも懸命に理由を説明しようと頑張ったんだ! お前こそちょっと睨まれただけで尻込みしていたではないか!」
「なによ……わたくしのせいにするっておっしゃるの! そもそも……香港の周 ファミリーが温厚で紳士的だって言ったのはあなたじゃないの! それがどう? 蓋を開けてみれば紳士的どころか……薄汚い裏社会の顔を丸出しの悪辣な男じゃない!」
どこが紳士なものですか! と、憤る。
「……ッ、そうムキになるな! 今は互いを詰り合っている場合ではない。それよりもあの周焔 という男が冰 の側についている以上、下手をしたら本当に遺産を諦めねばならん可能性も出てくる……」
「じょ、冗談じゃないわ! あなた、こうなったら是が非でも冰 自身に会って直接話をしましょう! でないと私たちは破滅よ……!」
「ああ……そうだな。一応は亭主たる周焔 を立ててやろうとしたというのに、この様だ。何の為に散々っぱら苦労して異国のマフィアの巣などに足を踏み入れる危険を冒したというのだ……! こうなったらお前の言うように冰 自身を説得するしかないだろう」
とはいえあの周焔 がいる以上、おいそれと冰 に近付くことは難しいだろう。
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