165 / 188

164

(ひょう)の為――とな。まあ、この際それがあんたらの本心だとしよう。だが、(ひょう)は既にこの俺と婚姻を交わしている。つまり、雪吹(ふぶき)であれ氷室(ひむろ)であれ、今はこの俺――周焔(ジォウ イェン)の連れ合いであり、(ジォウ)家の一員だ。正直に言ってしまえば遺産などは必要ない。(ひょう)のこと云々は気にせずに、あんたらが貰うべく額を受け取ればいいと思うが――?」 「必要ないって……! ちょっと待ってください(ジォウ)殿! 氷室(ひむろ)家の財産ですぞ。そんじょそこいらの遺産とはわけが違うのです! 莫大な財産をみすみす放棄しようと言われるのか! (ひょう)が遺産を手にすれば少なからずあなただって潤うのですぞ」 「そうよ! いくら配偶者だからって……(ひょう)の意見も聞かない内から遺産を放棄しようだなんて! 第一それじゃ(ひょう)が気の毒とは思いませんの!?」  二人は必死だ。だが(イェン)はまるで動じなかった。 「莫大な遺産だか何だか知らんが、そんなものが無くとも(ひょう)には決して不自由はさせん。逆に――財産争いなどに巻き込まれて(ひょう)が煩わされることの方が不本意だ。悪いがこの話はこれまでだ。万が一、氷室(ひむろ)家がどうこう言うのであれば、″周冰(ジォウ ピン)″は遺産を放棄すると伝えていただきたい」 「……周冰(ジォウ ピン)ですって?」 「そうだ。(ひょう)はこの俺に嫁いだ。ファミリーの掟に従い、既に(ジォウ)姓に入ったのだ」  もう雪吹(ふぶき)ではないし、むろんのこと氷室(ひむろ)でもない。わざわざ(ひょう)を広東語読みの″(ピン)″と言ったのもその為だ。きっぱりとした態度で(イェン)は話を蹴った。 「そんな……ッ! お待ちになって! (ジォウ)さん! 周焔(ジォウ イェン)さんッ」  残された夫婦は必死に(イェン)を呼び止めたが、彼が再び振り返ることはなかった。 ◇    ◇    ◇ 「ク……ッ、話の分からないお方だ……。我々に……あの莫大な財産を諦めろとぬかすか……。やはりマフィアというだけあってそう簡単にはいかんようだな……。まるでこちらの腹の内を見透かしているような言い方だ……。あやつには我々が(ひょう)に遺産を渡すわけもないと分かっているようだ」 「あなたが悪いのよ! 遺産の″一部″だなんて口を滑らせたりするから!」 「仕方ないだろう……。あの周焔(ジォウ イェン)とかいう男、若造ではあるが侮れないオーラが全身から滲み出ていた……。あの男と話している間中、私は蛇に睨まれた蛙の気分だったのだぞ……! それでも懸命に理由を説明しようと頑張ったんだ! お前こそちょっと睨まれただけで尻込みしていたではないか!」 「なによ……わたくしのせいにするっておっしゃるの! そもそも……香港の(ジォウ)ファミリーが温厚で紳士的だって言ったのはあなたじゃないの! それがどう? 蓋を開けてみれば紳士的どころか……薄汚い裏社会の顔を丸出しの悪辣な男じゃない!」  どこが紳士なものですか! と、憤る。 「……ッ、そうムキになるな! 今は互いを詰り合っている場合ではない。それよりもあの周焔(ジォウ イェン)という男が(ひょう)の側についている以上、下手をしたら本当に遺産を諦めねばならん可能性も出てくる……」 「じょ、冗談じゃないわ! あなた、こうなったら是が非でも(ひょう)自身に会って直接話をしましょう! でないと私たちは破滅よ……!」 「ああ……そうだな。一応は亭主たる周焔(ジォウ イェン)を立ててやろうとしたというのに、この様だ。何の為に散々っぱら苦労して異国のマフィアの巣などに足を踏み入れる危険を冒したというのだ……! こうなったらお前の言うように(ひょう)自身を説得するしかないだろう」  とはいえあの周焔(ジォウ イェン)がいる以上、おいそれと(ひょう)に近付くことは難しいだろう。

ともだちにシェアしよう!