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その頃、冰 の方は亡き氷室 夫人の兄夫婦が手を回した人物――なんと若い女によって同窓会の会場から連れ出されていた。言うことを聞かなければ焔にとって不利になる情報を警察当局に通報すると脅され、仕方なしに従うしかなかった。女装をさせられ、迎えにやって来たその若い女と共に旅行会社のツアー客に紛れ込まされて香港を脱出。遼二 らが見つけられなかった理由はこういうことだった。
日本に着くと、待っていた氷室 夫人の兄夫婦へと引き渡された。連れて行かれたのは財閥の一族が住まうにしては想像もつかない古いアパートの一室だった。焔 らの追っ手を欺く為であろう。まさか氷室 一族縁の者がこのような安アパートにしけ込んでいるなどとは考えないだろうからだ。なかなかに狡猾といえる。冰 はそこで理不尽極まりない要求を突き付けられて、身動きができずにいたのだ。
夫婦の言い分はこうだ。彼らと共に氷室 家へ行き、一族の前で自分は亡き氷室 当主の嫡子であることを聞いて育ったのだと証言しろと迫られた。雪吹 夫妻に連れられて香港へと移住させられた後、物心つく頃になって『あなたの本当の両親は私たちではない。日本の財閥・氷室 家当主夫妻の嫡子なのだが、のっぴきならない理由によって自分たち――つまり雪吹 夫妻――に託されたのだ』と教えられ、そう証言しろと言われたのだ。
「いい? 冰 ちゃん。あなたは一族の前でそう言えばいいだけなの。そうすれば氷室 の莫大な遺産はあなたの手に入る。それを持って香港に帰れば、きっと周焔 さんだって喜んでくれるわ」
「そうだぞ、冰 。雪吹 夫妻が事故で亡くなってしまったのは不幸なことだったが、その後お前さんを引き取って育ててくれたという黄 殿にも恩返しができるではないか。それにな、なんと言っても天国にいる伯父さんの妹、つまりお前の本当の母親も安心するというものだ。難しいことはない。伯父さんと伯母さんの教えた通りに皆の前で『自分は氷室 の嫡子だ』と言えばいいだけなんだよ」
有無を言わさずといった調子で夫婦から交互に諭されるも、冰 には信じ難い思いが拭い切れなかった。
「あの……。ですが僕は雪吹 の両親からそのような話を聞いた覚えもありませんし、それ以前に――焔 さんに何の相談もないままこのようなことをするのは気が進みません……」
せめて焔 にひと言相談させてくれと頼むも、伯父夫婦は首を縦には振らなかった。
「お前さんのご主人――周焔 殿にはもちろん話をさせてもらったのだよ。だがね、彼は非常に謙虚な心の持ち主でいらして、そのような遺産は受け取れない。辞退するとおっしゃられてね」
「焔 さんが辞退すると言ったのですか? でしたら僕も焔 さんのご意向に従うのが筋と思います。遺産は伯父様と伯母様が受け取ってくださればと思います」
冰 の言葉に伯母という女の方は上機嫌で頬を紅潮させた。
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