170 / 188
169
こうして焔 の行く末を人質に取られた形となった冰 は、伯父夫婦だというこの二人に従わざるを得ない状況に追い込まれ、彼らの要求を受け入れることとなってしまったのだった。
冰 の同意を確かめると、二人は驚くべき手際の早さで事を実行に移していった。彼らの知り合いである弁護士だという男の事務所に連れて行かれた時には、既に必要書類が揃っており、あとは氷室 の本宅へ行って親族らを前に嫡子の発表が成されるだけという調子で全てが整っていた。
二十世紀半ばのこの時代、後に当たり前のようになっていくDNA鑑定などというものは広く普及していない。本人の証言と弁護士の用意した周到な書類が揃いさえすれば、ある程度話に信憑性を持たせることは可能だったのだろう。氷室 の親族らも冰 の人の好さそうな風貌を目の当たりにして、今は亡き当主夫人の面影を感じ取った様子であった。加えて弁護士と伯父夫婦が用意した完璧な書類の数々を見せられれば、渋々でも遺産配分を認めざるを得ない。こうして目論見通り巨額の遺産を勝ち取ることに成功した伯父と伯母が大喜びすることとなったのだった。
思惑が叶い、莫大な財産を勝ち得たものの、こうなれば彼らにとってもう冰 に用は無い。手にした遺産を渡してくれるどころか、二度と関わってくれるなというように百八十度態度を翻し、あろうことか伯父夫婦は冰 を頼る術もないこの国で放り出したのである。
『あなたの役目は終わったわ。香港に帰るなり好きにするといい』
そう言って土地勘も何もないこの地で放り出された。とはいえ、香港に帰るにしても先立つ物すら持ち合わせてはいない。来日するに当たってのパスポートも彼らが用意した偽物――しかも女装させられた為に当然パスポートも女物だった。偽旅券の証拠隠滅は必須だったろうから、それすら今は取り上げられてしまっていて手元には無い。渡航費はおろか、その日食べる物を買う金さえもままならない着の身着のままで見限られたわけだ。これでは香港に帰る云々以前の話だった。
当然か、遺産の一部など分けてもらえるはずもなく、まるで用済みのゴミの如く扱いだった。冰 とて遺産が欲しかったわけではないが、せめて香港に帰るまでの面倒くらいは見てもらえると思っていた。だが、結果は帰る手立てさえ皆無の状況に追い込まれて、途方に暮れる形となってしまったのだった。
頭上を見上げれば分厚い冬の雲に覆われた空に宵闇が落ちてくる時間帯だ。香港育ちの冰 にとっては想像を遥かに超える寒風が頬を打つ。一夜を凌ぐ寝床もままならず、寒さに震え、頼る当てもない。
孤独の中で頬を伝う一筋の涙だけが唯一の温かい雫であった。
◇ ◇ ◇
ともだちにシェアしよう!

