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170 統治者として、夫として
一方、その少し前のことだ。皇帝邸では焔 らが必死になって冰 の捜索を続けていたものの、彼が香港を出た痕跡も見つけられないまま焦燥感に駆られていた。
「行き先は日本で間違いなかろう。どんな手を使ったのか知れんが、これだけ捜してもこの香港に例の伯父夫婦が見当たらないとなれば、ヤツら自身が冰 を迎えにやって来たわけではなく、誰かを雇って冰 は既に日本へ連れて行かれた可能性が高い」
焔 は自ら日本へ飛ぶことを決意したものの、問題はその間、九龍城砦地下街を留守にせねばならないということだった。
正直なところ日本へ渡ったとて、すぐに冰 が見つかるとは限らない。氷室 家を訪ねたところで知らぬ存ぜぬを通されれば捜索はより困難になるだろうからだ。
「カネ、すまない――。俺が香港を離れている間、この地下街のことを任されてはくれんだろうか――」
本来であれば遼二 や側近の李 らと共に日本へ飛ぶのが理想だが、地下街を放っていくわけにもいかない。事情を知った紫月 や飛燕 、菫 らが身命を賭して焔 の留守を引き受けると言ってはくれたものの、遼二 と李 を連れて行ってしまえば統治は脆弱となるのも事実だ。阿片の蔓延や羅辰 の息子の報復などが顕著な例だが、留守中にいつ想像もし得ない難儀が降り掛からないとも言い切れないからだ。ゆえに焔 は要となる遼二 や李 らを残して、単身日本に飛ぶことを考えているわけだった。
その日本には遼二 の父である僚一 がいるのだが、不運なことに現在は海外での任務の為に、番頭の源次郎 を伴って組を留守にしている現状だ。
「親父と源 さんがいれば頼みになるんだがな……。とにかく日本の組員たちにお前の力になるよう言っておいた。お前一人でどうにもならんようなら俺もすぐに後を追い掛ける」
「すまんな、カネ。状況は逐一報告する。ひとまずのところ李 らと共に地下街のことを頼んだぞ」
「ああ、任せろ」
紫月 や飛燕 も心配そうに見守る中、焔 が渡航の支度を終えた時だった。なんと、兄の周風 が側近の曹来 を伴って姿を見せたのだ。
「兄貴――」
「焔 、日本へ飛ぶそうだな」
「――はい。我が責を放り出すことになってしまい、心苦しいのですが……」
責とは地下街の統治のことだ。いかに伴侶の捜索の為とはいえ、統治者たる者が私情で大勢の民の安全を例え一時でも放棄するなど本来あってはならないことである。焔 もむろんのことそれを重々わきまえた上での苦渋の決断である。
平身低頭の焔 だったが、なんと兄・風 の口から飛び出したのは信じ難いようなあたたかい言葉だった。
「地下街のことは心配せずとも良い。お前が無事に冰 を連れて戻るまでの間、私が代わって引き受ける」
兄・周風 はその為に出向いて来たというのだ。
「兄貴……」
「だから何も心配せずに冰 を無事に取り戻すことだけに専念するのだ。とはいえ、私もこの地下街のことには不慣れだ。よって李狼珠 はここに置いて行ってもらいたい。その代わり、私の側近の曹来 をお前さんに預ける。彼は弁護士でもあるから、きっと力になれるはずだ。遼二 も焔 と一緒に日本へ渡って、弟を支えてやって欲しい」
穏やかな笑みとともにうなずいた兄の表情は慈愛に満ちていて、必ずや冰 を無事に連れ帰ってくれと言っているようだった。
「兄貴――恩にきます!」
思わず潤み出しそうになった涙を堪えながら焔 は深々と頭を下げた。
「うむ、焔 。お前さんが日本に飛ぶこと――本当はなぜもっと早くに私たちにも事情を打ち明けてくれなかったのだと言いたいところだがな。親父もこのことは既に承知だ。心置きなく捜索に専念するのだ」
焔 はファミリーに迷惑を掛けまいと父にも兄にも日本へ飛ぶことを伝えていなかったのだが、兄の風 は『冰 は我々のファミリーであって私の弟でもあるのだ』と言い、こういう時こそ家族が一丸となるべきだと、自らこの地下街へ赴いてくれたのだそうだ。
そんなファミリーの温情を胸に、焔 は必ずや冰 を連れて無事にこの香港へ帰るべく、決意を新たに海を越えたのだった。
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