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「……ふむ、それで当主夫人も医師も懐妊を勘違いしたというわけか」 「そうらしい。三月(みつき)となれば、懐妊を決定付けるにはちょうどいい時期だったんだろう。氷室(ひむろ)夫人は出産までの十ヶ月を別荘で過ごし、その間お抱え医師が付ききりで世話を任されていたそうだ」  医師が誤認と気付いたのは安定期に入る頃だったという。 「大財閥の当主夫人を誤診したとあっては、医師にとっても大問題だ。真実を公表できないままズルズルと月日が過ぎていったそうだ。表向きは懐妊したとされていて、氷室(ひむろ)のご当主はもちろんのこと親族たちも夫人が念願の子を宿したと思い込んでいた。だが実のところ子はできておらず、言うなれば妊娠自体が氷室夫(ひむろ)人の出まかせだったということだ」 「……では、例の伯父という男の妹というのは――亭主である氷室(ひむろ)のご当主にも嘘をついていたというわけか?」 「そのようだ。懐妊が発表されて以来、夫人はずっと別荘暮らしだった。ご当主も忙しい身の上だ。加えてお妾は数多くいて色事には困らないお人だ。実際に子が産まれるまでの間、ただの一度たりと夫人を見舞うことがなかったらしい」  そんな調子だから夫人が強く子を望んだのも納得させられるというものか。何としても夫婦の間を繋ぎ止める(かすがい)が欲しかったのかも知れない。 「嘘がバレたのは出産時期をとうに過ぎた一年後の頃だったそうだ。もう子が産まれていてもいい頃だろうと疑った氷室(ひむろ)家の親族たちに急っつかれて、ご当主が別荘を訪ねたそうだがな。その時には既に夫人は自我喪失状態でいて、まともな会話すら望めない病状に陥っていたそうだ」  だが、彼女は子を産んだのは事実だと言い張り、親族らの悪意ある視線から逃す為に生まれた子は養子に出したのだと主張したという。つまり、この時点で既に知人に子を預けて海外へ逃したと言い張ったらしい。 「もっとも事実は夫人と医師以外の誰にも分からずじまいだ。引退した医師によれば当主と正妻の間には子供は産まれなかったと証言している」  佐山(さやま)は、もちろんお妾方との間では子沢山だったようだが――と言って苦笑、そしてこうも付け加えた。 「同じ頃、氷室(ひむろ)家に使用人として勤めていた一組の夫婦が赤子を出産している。それが雪吹(ふぶき)夫妻さ。赤子の名は(ひょう)とある」  ――――! 「それじゃ……(ひょう)君は雪吹(ふぶき)夫妻の実の子だったというわけか!?」  (ツァオ)のみならず、これには(イェン)遼二(りょうじ)も驚きを隠せない。  そういうことになりますね――と、佐山(さやま)はうなずいてみせた。 「では……雪吹(ふぶき)夫妻が氷室(ひむろ)家の使用人として勤めていたのは事実なのですね?」  (ツァオ)同様、逸ったようにして今度は(イェン)が訊いた。 「ええ、その通りです。雪吹(ふぶき)氏の奥方が氷室(ひむろ)家の正妻付きのメイドだったことは確認が取れています。雪吹(ふぶき)夫人は気立てもやさしく、穏やかな女性だったそうです。氷室(ひむろ)一族の間で軽視されていた当主夫人にとっては誰より信頼の置ける人物だったようで、二人は主と使用人という立場を超えた親友のような間柄だったとか。ただ、氷室(ひむろ)夫人の嘘がきっかけでその関係性は一気に崩れることになってしまった。氷室(ひむろ)夫人は雪吹(ふぶき)夫妻の赤子を自分が産んだ子として欲しがったのだそうです」

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