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「と……とにかく……財布とパスポートが無事なのは幸いだ……。まずは銀行を探して金を下ろそうじゃないか。私たちには莫大な遺産があるのだ。あれさえあれば何も心配は要らん……」  亭主の方はさすがに妻よりもしっかりとしているようだ。うろたえる女の手を引きずって路地を抜けようとした時だ。どこから現れたのか、怪しげな輩に取り囲まれて戦慄が走った。目の前に迫り来るのは一目で危ないことに手を染めているような悪人面の者たちが次から次へと湧き出て来ては自分たちに迫り来る。目的は聞かずとも金品の強奪だろう。二人は必死で財布とパスポートを握りしめながら決死の思いでその場を逃げ出した。  むろんのこと、夫婦二人だけでは強盗さながらの悪人たちから逃げ切ることは困難だったろう。無事に逃げられたのは陰から密かに鐘崎(かねさき)組の若い衆らが手助けしていたお陰だ。そうとは知らない二人にとっては、頼る者も皆無の非常に危機迫る精神状態だっただろう。  今回、(イェン)が現金の他にカードやパスポートを彼らの手元に残したのは、温情を掛ける為ではない。彼らが捕まった際に身分を偽らせないことが目的だ。加えて、カード決済をすれば万が一行方を眩まされた場合、即座に所在を知る為である。むろんのこと、この二人にとってはとりあえずの現金やカードが手元にあることで、″まだこの先どうにでもなる″という望みを与えてやる為でもある。それら一筋の光を必死に追わせ、だがしかしその″光″には決して手が届くことはないのだと知った時に、衝撃は幾千倍となって彼らを地獄の底に突き落とすだろう。  結果的に言えば身体的には怪我を負うこともなく五体満足のままでいられるものの、心底まで恐怖を味わせて、二度と立ち上がれないように心を折る。それが(イェン)の下した制裁であった。 ◇    ◇    ◇  そうして無事に大通りへと出られたものの、それこそ見たこともない街に目の前が真っ白になる。だが、とりあえずのところ危ない輩たちからは逃げ切ることが叶った。 「……と、とにかく……ここまで来れば安心だ。人通りも多いことだ。何を置いてもすぐに警察へ急ごう……」  まずは身の安全を確保した上で、その後は銀行へ行って金を引き出せばいい。亭主の方はそう思っていたようだが、その頼みの銀行にも自由になる金など一文も無いことを知るのは時間の問題だ。それ以前に警察署に駆け込もうとした時点でお縄になるビラに気付くだろうから、助けを求めることも憚られるだろう。 「なぜだ……なぜ急にこんなことに……」 「……あの男よ……きっとそうだわ……! あの周焔(ジォウ イェン)とかいうマフィアの仕業に決まってる……!」 「まさかそんな……。第一なぜあの周焔(ジォウ イェン)がこんなことを」 「決まってるじゃない! 本性を表したのよ! 何だかんだと言いながら結局は(ひょう)に入るはずの遺産を横取りしようとしてるに決まってる……! まったく! 図々しいこと!」  女は悔しがって地団駄を踏んでいたが、既に後の祭りだということに未だ気付いていないようだ。浅はかなことといったらこの上ない。 「そうだわ! あのマフィアを警察に訴えればいい! 急ぎましょう、あなた! そうすれば私たちは助かる!」 「……だがしかし……本当に周焔(ジォウ イェン)の仕業かどうかも分からん」 「何言ってるの! あの男の仕業に決まってるじゃない! 財産を横取りされそうになっていると警察に訴えればいいわ!」  女は焦って金切り声を裏返している。亭主の方も仕方なく言われるままに警察署へと向かったものの、そこで自分たちの手配書が張り出されているのを目の当たりにすることになる。 「私たちが指名手配犯だと……? いったいどうなっているのだ……。これでは警察に助けを求めることもできん」  やはり妻の言うようにあの周焔(ジォウ イェン)の仕業なのだろうか――そう思えどもこうなっては身動きすらままならない。  その後、財布に残っていた金を現地の紙幣に替える為、銀行を訪れた夫婦を待っていたのは凍結された口座と一文無しに陥ったという驚愕の現実だった。 ◇    ◇    ◇

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