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第3話
そろそろオーダーストップの時間も近くなり、朔也は店じまいの準備をしていた。
今日は比較的暇な日だった。
川端さんも帰り、誰もお客さんが来ないようだったのでマスターも先にあがった。
1人になると朔也は、カウンターの下に置かれた媚薬に目がいき、何故か匂いを嗅ぎたくなった。
媚薬というものは今まで漫画でしか見たことがなかった。そういう物が本当に存在するなんて思わなかった。
好奇心から、匂いだけ嗅いでみようと蓋を開けたところに、新しいお客さんが入店してきた。
「いらっしゃいませ」
最後のお客さんを送り出して、もう今日は終わりだと思ったのに残念、と内心思いながらも笑顔で応対した。
「まだ大丈夫ですか?」
スーツ姿のその男性は初めて見る顔だった。
「ええもちろん。どうぞおかけください」
カウンターの奥の席に案内する。
1人でくるお客さんは、バーテンとの会話を楽しみたい人がほとんどだ。そういった場合は奥の席が好まれる。
彼は国産のウイスキーをトゥワイスアップで注文した。
「何時まで大丈夫ですか?」
気を遣ってそう訊ねてくる男性に、お気になさらずごゆっくりどうぞと答えた。
「仕事でこの辺りにくることも多くなりそうだから、|一見《いちげん》でも大丈夫なバーを探していたんだ」
男性客が朔也に話かけてきた。たぶん自分より若い男性のバーテンだったから気を許したのかもしれない。
「ここは分かりにくい場所にあるので一見さんは珍しいのですが、初めての方も大歓迎です。これからも贔屓にしていただけると有り難いです」
営業スマイルで答える。
それから彼はゆっくりとグラスを傾けて、後ろに置いてある様々なウイスキーを眺めていた。
「ウイスキーの種類も沢山あるみたいだね、いい店を発見できてうれしいよ」
ありがとうございますとスマートに返事をする。
ウイスキーのうんちくをきかされるだろうなと予想し「凄いですね。よくご存じで」と客を喜ばせる言葉を用意していたが、話しかけられることはなく、その客は静かに飲んでいた。
少なくなったナッツの補充をしながら、彼の様子を伺う。
年齢は30代だろう。
『自分の魅力を最大限引き出すために服を着る』とはこの人のためにある言葉なのかもしれない。
クラシックなスーツが似合っている。
派手さがなくパッと見地味だが、控えめな光沢感のある無地のブルースーツに、無地のネクタイを合わせた着こなしは完璧で、男性の色気と内面の魅力を引き立てる。
腕時計が日本製なのもなかなかかっこいいと思った。
そんな事を考えながら彼をチラチラ見ていて、朔也はお客さんのグラスが空になっているのに気がつかなかった。
「おすすめのカクテル。ウイスキーベースで何か作ってもらってもいいかな?」
彼は空になったグラスを傾けた。
「はい……カクテルですね……ドライマンハッタンでよろしいでしょうか?」
いそいでバーテンの顔に戻り、接客スマイルで返事をした。
「いいね、お願いします」
彼はうんと頷いた。
かなりドライで辛口、かつアルコール度数も高い、男のためのマンハッタンといった感じのカクテル。
彼にぴったりだ。
慣れていないレシピで尚且、バーテンダー泣かせのマンハッタンを朔也はさも得意であるかのように格好つけてステアした。
朔也は童顔のせいで年齢よりも若く見られる。
甘く見られないように、できるだけプロ意識を持って接客するように心がけている。
空になったグラスを下げ、マンハッタンを男性の前に置いた。
いつもならきちんと量を測ってグラスに注ぐ。今日は何故かグラスの淵から溢れ出しそうになっていたのでお客さんから見えないように少し中身を捨てサーブした。
朔也は、このカクテル『ドライマンハッタン』がまさかの事態を巻き起こしてしまう原因になろうとは思ってもみなかった。
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