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第7話
朔也は日常を取り戻した。
バスルームに置いてあった、彼が買ったらしいシェービングクリームと歯ブラシ。
捨ててくれと言ったワイシャツとネクタイ。
そういった彼の形跡は、クローゼットの奥にしまわれ、日を追うごとに忘れ去られる。
もしかしたら彼が取りに来るかもしれないという心配は取り越し苦労に終わった。
あれから1ヶ月が過ぎようとしていた。
その日は平日で22時にはもうお客さんは一人もいなくなっていた。
マスターと今日はもう早く店じまいしましょうかと話して、閉店の準備を始めると同時に店のドアが開いた。
「いらっしゃいませ」
マスターが客を迎え入れる。
その客の姿を確認し、朔也は動揺して思わず客を二度見してしまった。
マスターは朔也が息を呑んだのに気がついたようだ。
お客さんを席に案内し、おしぼりを出すと朔也に「よかったら先に上がる?」と聞いてくれた。
それはまずい。先には帰れない。
彼がマスターに何か言ったら、朔也の立場がない。
朔也はこの前の媚薬の件をマスターには一切話していなかった。もちろんクビを覚悟で打ち明ける必要があるとは思ったが、その勇気がなかった。
もしかして彼の体に、あの媚薬のせいで何かの後遺症が現れたのなら、訴えられることも考えられる。
あれから、川端さんにあの薬の効果や副作用について確認した。大丈夫だよ、もしかして飲んでみた?と言われた。
医療に詳しい製薬会社のお客さんに聞いてみたが、精力剤で市販されているものについては、さほど心配することはないと言われたので安心していた。
まさか彼がまたこの店にやって来るとは思ってなかった。
朔也はマスターにできるだけ普段通りに『この間自分が一人の時に、お店に来てくださった一見さんです』と小声で説明し、彼の元へ注文を聞きに行った。
「いらっしゃいませ、ご注文は何にされますか」
朔也は平静を装い、いつもと変わらない様子でにこやかに注文を聞いた。
「久しぶりだね。ウイスキーをロックでお願い」
かしこまりましたと朔也は彼のウイスキーを準備する。
その間におつまみを出したマスターはそれとなく彼に質問をした。
「お仕事帰りですか?」
「……そうです」
「お疲れさまです」
初めて会うお客様に対して質問をするのはタブーだ。それを承知でマスターは訊ねている。
「仕事で近くに来ることが多くなったので、この辺りで良いバーを探していました。ここは雰囲気がよく落ち着けますね」
彼もマスターが見慣れない客に対して探りを入れているなと感じたのか、愛想良く話しをした。
「そうですか、有難うございます」
マスターはうんうんと頷きながら、いつもの営業スマイルで、どうぞごゆっくと感謝の気持ちを伝えた。
数分話をするだけでマスターは人を見抜く。
お酒の飲み方もそうだが、例えばおしぼりの置き方、トイレの使い方。姿勢やファッションセンス。
彼はマスターから及第点を得たようだった。
ウイスキーを彼の前に出すと同時に、新しい客が二人入ってきた。
そして女性の常連さんがやってきた。
店が少し忙しくなり、彼と話をしなくて済むと朔也は少しホッとした。
常連の女性客はマスターに気があるらしく、いつもはカウンターの奥の席でお店が暇な時にマスターに相手をしてもらっている。
今日は初めて見る客の彼を見つけると「お隣、よろしいですか?」と尋ねた。
連れがいる場合を除き、こういう時に断ったら客同士がお互い気まずくなる。
空いている席に座るのは客として、もちろん自由だからだ。
「どうぞ」
笑顔で答え、腕時計に目をやった。
二杯目を飲み終わると彼は朔也を捕まえた。
「話があるから、時間は取れる?」
朔也はドキッとした。やはり声をかけてこられた。
「後、一時間ほどで終わります。部屋で待っていてください」
会計のとき、部屋の鍵をそっと彼に渡すと、ありがとうございましたと言って送り出した。
できるだけ急いで片付けを済ませて店を後にした。部屋で待っていてといったのだが、彼は遠慮もあったのか、部屋には入らず朔也が店から出てくるまでコンビニで待っていたようだ。
「体は大丈夫だった?あの日は俺も我慢がきかなかったというか……無茶をしたと思っている」
「僕は……僕の体は問題ないです。えっと、この間はメロンありがとうございました」
どうぞと鍵を開けると、中へ入ってもらった。
彼はネクタイを緩めた。勝手知ったる様子でベッドに背をあずけラグにそのまま腰をおろした。
朔也の部屋は決して広くはないワンルームだ。ソファー等は置ける余裕がない。部屋にお客さんが来ると否応なしに、相手とくっついて座る状態になる。
朔也は彼が手土産に持ってきてくれたスイーツやいろんなものを冷蔵庫に入れて、お酒はもういらないだろうと、麦茶を出した。
「朔也の携帯番号を知らない。話をしなければと思っていたんだが、仕事が忙しくなかなか時間が取れなかった。すまなかった」
「あの……やはり何か副作用みたいなものが出たのですか?どこか体の調子がおかしくなったとか……」
朔也に連絡を取りたかったということは、やはり何かがあったんだろう。
「あの媚薬の成分を調べた。毒物的なものは出てこなかった。違法なものも入ってなかった。その事もちゃんと君に伝えたかった」
朔也は緊張が解けてホッと胸をなでおろした。責任を感じていたのでそれを聞いて安心した。
「心配でしたし、気がかりだったので。それを聞いて安心しました」
この人はわざわざそれを伝えるために来てくれたんだ。結構良い人なのかもしれない。
「お腹空いてませんか?なにか食べるもの用意しますね」
調子のいいもので、彼が敵ではないと認定したら急に接待しなくては感が出てくる。
まぁ、出すものは、彼がさっき買ってきてくれたスイーツになるわけだけど。
「ちょっとその前に、質問してもいいかな?」
「なんですか?」
「お店にいたマスター?って君の恋人?」
はい?と朔也は思わず持っていたプリンを落としそうになった。
「まさか、恋人ではありません」
「君の好きな人、というわけでもない?」
覗き込むように質問する。
それがこの人にどういう関係があるのかはわからないが朔也は答えた。
「もちろん尊敬してます。ただ恋愛対象として見ているわけではありませんし、マスターもそういうつもりで私を雇っているわけではないと思います」
確かに憧れてはいるが、好意があるというよりは尊敬している感じ。それにマスターにはちゃんとしたお相手がいらっしゃる。
「あの……時間も時間ですので、今日はどうされますか、タクシーを捕まえますか?この時間なかなか捕まらないので」
「いや、もう少し話したいんだが」
「なにを……?」
きょとんとする朔也をみて、くすりと笑うと、彼は朔也の首の後ろに手を添え、ぐっと引き寄せた。
「ちっ……ちょっとなにをしてるんですか」
朔也は両手で彼の胸を押した。
「嫌?」
彼の顔が近づく。かすかに香水の香りがする。
「ちっ……いやとかではないですが、なんで……」
彼は力を抜いて朔也を離した。
そしてため息をつくと、
「あの薬の箱に『相手をメロメロにさせる究極の惚れ薬』って書いてあったよね?」
あまりよく覚えていないが書いてあったような気もすると朔也は思った。
「これを後遺症と言っていいのかどうかわからないが、あの媚薬を飲んだ日からずっと、夜になると朔也を思い出して 熱くなる。今まではそんなに性欲が強い方ではなかったから、俺にとっては毎晩が結構辛い」
「え、どういう……」
彼は毎晩下半身が元気になるといっているのか。
それは普通のことでは?一般的な男性がどれくらいのスパンで勃起するのかわからない。刺激が加われば毎日勃ってもおかしくないとは思うけど。
「あの媚薬のせいで俺は君に惚れてしまったのもしれない。責任を取れと言っているわけではないけど、俺の気持ちが落ち着くまで付き合うべきだと思う」
「あの……えっ?」
この人、何を言ってるんだろう。
惚れ薬なんてあるわけがない。
いくらなんでも無茶苦茶なこじつけではないか?
「僕じゃなくても良くないですか?今日もバーで隣に女性のお客さんが座りましたよね、彼女はあなたに興味があったと思います。誘えばついてきたのではないでしょうか?」
性処理の相手は、彼くらいイケメンならいくらでも見つけられるだろう。
「朔也はまだよく理解していないようだけれど、惚れ薬の効果は最初に目に入った相手に発揮されるんだ。シェークスピアの時代から決まっているだろ」
朔也は驚きのあまり呆然としてしまった。
シェークスピアとは?『真夏の夜の夢』シェイクスピア作の劇の話だろうか。
あの話は確か媚薬のせいで、ロバの頭を持ったロバ男に惚れるハチャメチャな喜劇だったのでは……。
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