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09.良心と羞恥

 ものの見事に自制心を粉砕され、恐ろしい程に体が軽くなった。  衝動的に口付けて首に腕を回す。傾いで近付いてきた唇を深く塞ぎ、酸素を求めて僅かに開いた口の中へ舌を差し込んだ。びくりと肩を震わせた春真だったけれど、すぐに応えて舌を差し出してくる。  なのに触れたそれは少し逃げ腰だ。引っ込もうとするそれを追いかけて絡めると、背に回った手がぎゅっと上着を掴む。久しぶりの感触と春真の香りに包まれ、何だか頭がふわふわとしてきた。    が。 「あの……申し訳ございません……」  突然後ろからかかった声に、沈みかけていた思考が一気に引き上げられる。我に返って自分以上に慌てたらしい春真に力一杯押し返され、少したたらを踏んでしまった。 「そ、そろそろ我々は失礼させて頂きます……」  振り向いた先は春真を囲んでいた面々。  声をかけてきた者意外は皆、所在なさげに視線をあちらこちらへと逸らしている。 「あ、ああ……そ、そう、か」  ……やってしまった。  彼らの存在が完全に意識から外れていた。  春真を連れてきた手前、勝手に解散は出来ずに留まっていたのだろう。律儀に会話の終わりを待っていた彼らに何を見せてしまったのか。 「す、すまない……ありがとう、もう大丈夫だ」  そのようですねと小さく頷きながら、声をかけてきた生徒は頭を深く下げて教室を出た。それに続いて他の親衛隊も一礼して退室していく。  その様子を見守っていると、不意に最後の一人がちらりとこちらを振り返った。 「………………あの。この部屋に留まられるのであれば、戸締まりを」 「戸締まり?」  何処か気まずそうに視線が床へ落ちた後、春真の方へ視線が動く。そしてすぐに再びこちらへ戻ってきて。 「行家の方から、少々甘い匂いがしているので」 「えっ!?」  発せられた言葉へ間髪をいれずに反応したのは春真だった。慌てた様子で着ている服の匂いを嗅いでいる。自分自身のフェロモンは分かりにくいというし、その行動で分かるとは思えないけれど。  慌てる春真を見てくすりと笑った目の前の生徒は、軽く会釈をした。 「……すまない、ありがとう。この状況についての話は後日」 「はい。いつでも招集下さい」  そう言って教室を出た背中を見送る。最低限の物音でゆっくりと閉じられたドアを見つめていると、くいくいと服を引っ張られた。  「せ、先輩、あいつら悪くない……お坊ちゃん集団に囲まれたから、親衛隊が説教するって理由つけて連れ出してくれただけで」  眉をハの字にして見つめてくる春真は何処か気遣わしげだ。自分が仁科儀秋都の事で勘違いをして、盛大に癇癪を起こしてしまったせいもあるのだろうか。先程までの喧嘩腰な声音はすっかり鳴りを潜めている。 「分かっている。……お前を庇おうとしていたから、察しはついた」  自分の指示で春真を守ってくれていたとはいえ、指示を出した本人に向かって春真を庇うとは思わなかった。表向きの距離感は恐らく、親衛隊が粛正する体裁の方が春真を守りやすいからなのだろう。仲の良い者の粛正など生ぬるいと言われかねないから。  思っているより春真と打ち解けていたのだ。その姿勢も、きっちり仕事をしてくれる所も、義理堅い所も、今の親衛隊には好感が持てる。  少しだけ、もやもやとはするけれど。 「さ、さすが察しが良……おわっ」 「……本当だな……甘い匂いがする」  春真を抱きしめると、確かに襟元から微かに甘く香りがする。けれどそれは本当に微かなものだ。これを感じ取ったというαの嗅覚は末恐ろしい。  ふわふわと鼻先をくすぐる香りに頬をすり寄せると、腕の中の春真が少し身じろぎした。 「ちょ、くすぐったい」  聞こえてくる声は少し笑いを含んでいる。見上げた顔は声と同じ様に微笑んでいて、酷くほっとした。  けれど、どうして今フェロモンの香りがするのだろう。  春真は在学中のΩの中で飛び抜けて症状が軽いと学校側から聞いている。朝と晩しか薬を飲んでいなくても、他者からの……主に発情した自分から影響を受けた時以外はヒート症状などでないのに。 「昼間から珍しいな。抑制剤は飲んだのか?」 「疑うのそこかよ! ちゃんと朝飯食って飲、ん……だ……?」  最初は勢いがよかったのに、段々としどろもどろになっていく。  ……これは忘れたな。   「まったく、薬はちゃんと飲めと言っているだろう」  散々、何度も、嫌というほど口酸っぱく言っているのに。  症状に悩まされる機会が少ないとはいえ、何度か目の前で発情してコントロール出来なくなってしまっていた時もあった。その時の辛さは身に染みているはずなのに、余りにも無防備が過ぎる。  これは久々の説教かとじとりと睨むと、春真は慌てた顔で口を開く。 「だって! アンタが逃げるからそれどころじゃなかったし!」  ……何を言うかと思えば。 「俺のせいだと?」 「そっそうだよ! オレがおかしくなるのはアンタのせいなんだからな!」  そんなドヤ顔で言うことか。  確かに自分のヒート症状が春真に影響すると本人から聞いたけれど。飲み忘れまでこちらのせいにされても。  そんな思考が態度に出ていたのか、春真はムッとした顔で睨んでくる。  「先輩の連絡待ってる間、気付いたらアンタの事ばっか考えてたんだぞ。だから、オレの行動がおかしくなったのは全部アンタのせいだ」 「……そう、か。それは……困ったな」  むくれた顔から嬉しい言葉が降り注いで、今まで一人で悶々としていたのは一体何だったのだろうと馬鹿馬鹿しくなってくる。  春真はずっと見つめていてくれたのに。彼の事なら信じられると思っていたはずなのに。悪い方へ考えると止まらなくなるのは悪い癖だ。  真っ直ぐ射貫くように見つめてくる瞳が眩しくて、ほんのりと頬が熱い。 「だから、オレにも薬飲ませて。他の奴らにするみたいに」 「微妙に嫌な言い方を」  まるで他のΩにも春真と同じ様にしているような物言いだ。 「本当の事だろ。他のΩ助ける時は頭撫でたり、良い子って優しい声かけたりしてるくせに」 「お前も似た状況の時には同じ事をしてやったと記憶しているが」  ついでに事あるごとに抜いていたし、Ωだと分かった時には抱いてしまった。自分もフェロモンにやられていたとはいえ、よくぞ当たり前の様に手を出したものだと今になれば思うけれど。    今まで助けたどのΩよりも、春真の方がよほど自分のアレコレをその身に受けている。そんな目で見つめられるのは心外だ。 「そんなもん必死で細かいこと覚えてねぇよ」 「……理不尽だな」  理不尽過ぎて笑えてくる。  けれど何処かねだるような顔がくすぐったくて、満更でもない。軽く口付けると、ぎゅうっと抱きしめられた。

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