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5.もったいなくて(2)
そこから数分で、颯斗以外の誰もが目の前の皿を早々に空にした。食べ盛りの彼らは食事のスピードも早いようだ。
バスケでもしようぜと次々に席を立っていく中で、颯斗だけが食べきれない唐揚げをもたもたと小さな口で齧っていた。
「あ、あのっ、す、すみません、大丈夫なので、せんぱいも、バスケ行ってください」
「おまえは待っててやれ」と言いつけられた善は、すでに空になった皿を前に置きながら、気だるげにスマホをいじっている。
「いーから早く食えよ。ここで置いて行ったら、俺が後からいろいろ言われるんだって」
「あ、は、はい。すみませんっ」
言いながら、颯斗は必死に唐揚げを齧った。
しかしもともと病気のせいで食欲がなく、すでにお腹はいっぱいだ。おまけに最近食べていなかった揚げ物の油で胸焼けまでし始めている。なんとか早く食べ切りたいが、なかなか喉を通っていかない。
「あー、もう、イライラすんなっ。おまえは兎かっ! もそもそとやってねえで口開けてちゃんと食え」
そう言うと、善は颯斗の手からフォークを奪って皿の上の唐揚げを突き刺すと、ぐっと口元に押しつけてきた。
「ほら、食え、口開けろ」
「は、はひっ! ふぐぅっ……!」
薄く開いた颯斗の口元に、善が無理矢理唐揚げをねじ込んでくる。まるまる一個を口に含んで、颯斗は一生懸命に咀嚼した。
「ほら、まだあんぞ、食え」
「ひぇんぱい、まだ、口にっ、はぐぅっ……!」
もう一つ押し込まれ、颯斗の頬が膨れ上がった。飲み込めない息苦しさで、ほんのり目元に涙が浮かぶ。
「ラスト一個、食え、ほら」
「せんぱ、や、やめっぐぅ……」
颯斗は両手でフォークを握る善の手首を掴む。
そんな颯斗の抵抗を、善は面白がっているかのようだ。反対の手で颯斗の頭を抑えると、ほとんど無理矢理唐揚げを口に押し込んでくる。
颯斗は目に生理的な涙を滲ませながら、必死にそれを咀嚼した。
善はそんな颯斗を眺めながら、何故かその瞳に恍惚とした色みせ、口元には僅かに笑みを浮かべている。
ずいぶん長いこと口の中で唐揚げを噛み続け、結局最後は水で喉奥に流し込んだ。
ようやく颯斗が食べ終えると、善はさっさと席を立って行ってしまった。
颯斗は慌てて弁当箱を閉じて包み直す。近くに備えてあった台拭きで、テーブル全体を拭いていると、「おい、早くしろよ」と、何故だか善が戻ってきた。
「え?」
「え? じゃねーよ、早く行くぞ」
「あのっ、えーっと……」
「体育館、行くぞ」
「は、はいっ!」
どうやら善の中では颯斗も体育館に行くものとして数えていたらしい。
仲間に入れてもらえると思っていなかった颯斗は、驚きつつも早足で善の後に続いた。
バスケをしている善を撮影するチャンスだ。そう思って、ポケットの中のスマホの所在を確かめニヤついた。
しかし少し歩いたところで、だんだんと胸焼けが酷くなってきた。すっきりしない胸元を手でさすってみると、喉奥から気持ち悪さが込み上げてくる。
――これ、吐いちゃうかもな……
廊下や体育館の人目があるところで粗相をしてしまっては大変だ。
颯斗は額に浮き出た脂汗を拭った。
体育館に続く1階のホールの脇に、トイレのマークが見えている。
「あ、あの、せんぱい」
「あ?」
前を歩いていた善が颯斗の呼びかけに振り返った。
「す、すみませんっ、あのっ、トイレに行くんで、先に行ってて下さい」
そう言いながら、颯斗はトイレの場所を指差した。
「ああ。てか、具合悪いの?」
「へっ?」
「顔色いつにも増して悪いけど」
「あ、はいっ、あのぅ、でもたぶんすぐ良くなるんで」
「あっそ」
そう言うと、善は向きを変え体育館の方へと行ってしまった。颯斗はふらふらとトイレの方へと向かう。
むしろ、善が行ってくれて良かった。情けない姿を見られなくて済む。
幸いトイレには颯斗以外の人はいなかった。入った途端安心して一気に吐き気が込み上げてくる。颯斗は慌てて個室の便器に顔をもたげた。
このところ服用している薬の副作用やホルモンバランスが崩れ酷くなったSub衝動のせいで吐き気を催すため、嘔吐することに慣れていた。
胃の中を吐ききって、少しの間座っていればある程度体は楽になるのだ。
今もほぼ出し切って、颯斗はトイレットペーパーで口元を拭った。
汚いと思いつつ、どうにも立ち上がれずにトイレの床に座り込んで少しの間休んでいると、向こうから足音が聞こえる。
誰か入ってきたようだが、慌てて飛び込んだため個室のドアは開けられたままだ。
座り込んでいるところを見られたら、変に思われるだろう。そう思って、颯斗は壁に手をついてゆっくりと立ち上がった。
「はい」
振り返った颯斗は目を瞬いた。
そこに立っていたのは、ペットボトルの水を手にした善だった。しかもその水をこちらに差し出している。
「あ、あの、く、くれるんですか?」
「あ? なに、いらねえの」
「い、いえっ、い、いります!」
颯斗は慌ててそのペットボトルを両手で受け取った。
洗面台で口を濯ぎ、涙が滲んだ顔を洗っても、まだ善はそこにいた。
「おまえさ」
「は、はいっ!」
「言えよ、吐きそうなら、もう食えねえって」
「へっ」
「そしたら、あんな無理矢理食わせなかったし」
「あ、は、はいっ、でも、やめてっていいまっ……」
「おまえがはっきりしないからいけないんだからな」
「は、はいっ!」
「次から言えよな」
「はい、あ、あのぅ、でも」
「あ?」
「えっと、せっかく、先輩が買ってくれたから、残すのもったいなくて」
颯斗が言うと、善は深くため息をついて俯きながら顔を抑えた。
「水飲め」
「あ、はい」
「飲んだら保健室いくぞ」
「あ、で、でも、吐いたからもうだいじょっ……」
「俺が金沢たち に責められるんだよ。いいから行くぞ」
「はいっ!」
善は踵を返してトイレから出ていく。
颯斗は慌てて追いかけた。胸元にはお弁当箱と、もらった水を抱きしめている。
一歩踏み出して驚いた。急に地面が柔らかくぐにゃりと歪んだのだ。しかし、当然それは錯覚で、次に視界の隅が黒く狭窄し、中心から白んでいった。
――あ、これ、倒れるやつ……
手を出さなければと咄嗟に思うが間に合わない。
肘を曲げた変な体制のまま胴体で受け身を取った颯斗は、そのまま床へどさりと倒れ込んでしまった。
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