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12.そういうつもりじゃ(2)

 もうすぐ颯斗のマンションにたどり着いてしまう。   名残惜しさの中で颯斗はポケットからスマートフォンを取り出した。  ヒビの入った画面を見るたびに、この日を思い出すかもしれないと、そんなふうに思いながら指を滑らせた。 「あのさ」  少し続いた沈黙を、善がまた静かに割った。 「俺たち……」  そこまで善が言ったのと、颯斗が顔を上げた瞬間、そして善のスマホが音を鳴らしたのは、殆ど同じタイミングだった。  善は言葉を止め、スマホを手にして画面をのぞいて立ち止まった。  颯斗もそれに合わせて立ち止まり、善を振り返った。 「なにこれ」  善は画面を見つめながら眉間に皺を寄せた。 「あ、あの、ホテル代です、さっき払ってもらっちゃったんで」 「あきらかに多いけど」  善が見ているのは、颯斗からの電子マネーの受信履歴だ。 「あ、はい、大丈夫です! お年玉とか、あんまり使わなくて」 「いや、なんで」 「あの、前に調べたんです、俺」 「なにを」 「プレイをお願いする時の謝礼って、どのくらいなのかなって……その分を、えっと、上乗せしました」 「は」 「あ、た、たぶん相場かなって思うんですけど、た、足りませんか?」 「意味わかんね」 「え、あ、あの、今日、すごく助かったし、なんていうか、とてもいい思い出になったので」 「は? 思い出? は?」  善の語調が苛立ちをはらみ、颯斗は驚きたじろいだ。 「おまえ、これ、意味わかってやってる?」 「え、あ、あの……プレイしてもらったので、謝礼を」 「なにおまえ、俺のこと風俗かなんかだとでも思ってんの?」  その言葉で颯斗は青ざめた。  感謝の気持ちを伝えたかった。ただそれだけなのに、自分の行為は間違っていたと気がついたのだ。 「あ、せ、せんぱいっ、違います! そういうつもりじゃっ!」  颯斗は縋るように手を伸ばし、善の手を握った。  しかし直後善が身を引いて、颯斗の手を力強く払い除けた。 「ないわ、おまえ」 「せ、せんぱ……い……」  Dom()の表情に苛立ちと失望が見えている。  颯斗は払い除けられ、行き場を失ったその手を中途半端に持ち上げたまま、善の表情を見上げていた。  鳩尾を強く押されるような感覚だ。息苦しいのに、目が離せない。こめかみを汗が伝い、呼吸が荒くなっていく。  強いグレアを正面で受けた颯斗の視界は揺れ、足元を掬われたかのようにその場に崩れ落ちた。  視界の隅に、一瞬我に帰ったような善の表情が見えた。その口元が何か言う前に、後方から声が聞こえる。 「颯斗‼︎」  悲鳴に近い叫び声が夜の住宅街に響いて、そのあとバタバタと足音が近付いてきた。  母親だ。と颯斗はすぐにわかった。  ちゃんと連絡はいれていたはずなのに、それでも心配して様子を見に来たのかもしれない。 「大丈夫⁈ 颯斗!」  肩を支えられ、颯斗は母の腕を掴み返して顔をあげた。泣き出しそうな母親が必死に颯斗の名前を呼んでいる。  少しグレアに当てられただけ、大袈裟だ。と言おうと思った。しかし普段気丈に振舞っていても、余命宣告された息子に対する母の気持ちを考えたらそんなことは言えなかった。 「大丈夫……」 と、颯斗は掠れた声でそれだけ答えた。 「おばさん……」  善の声が聞こえた。見上げると、その表情は狼狽えている。 「大崎くん、ここまで送ってくれたのね、ありがとう」  母親は善と颯斗の間に何があったのかを尋ねなかった。しかし声音には僅かな怒りが混ざっていて、もしかしたらDomである善の行為がなにか颯斗に影響したことを察したのかもしれない。 「あの、俺……」  善が何かを言いかけるが、母親は何も聞かぬとでもいうように、颯斗の体を支えながら立ち上がる。  鼻を啜る音が聞こえたので、母は泣いていたのかもしれない。 「ここまででいいから、あなたもう帰って」 「でも……」 「いいから帰って!」  母親が声を荒げた。吐く息は震えている。  颯斗は善を振り返れずに、足元がおぼつかないまま母親に支えられ、善を残したままその場を去った。

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