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13.頼むから(1)

               ◇  夏休みが終わった。  新学期を迎えたが、九月はまだ夏を終えず、厳しい残暑が続いている。  昼休み、エアコンの効いた食堂のあの席を伺いながら颯斗はまた深くため息をついた。 「お、アノちゃん」  カレーライスを食べていた金沢が顔を上げた。  少し離れた位置から様子を見ていた颯斗に気がつき、声をかけて手招きしてくれる。  颯斗はおずおずと三年生のグループが座る席に歩み寄った。 「あ、あの、今日も大崎せんぱいはいませんか?」  颯斗は金沢に手を引かれ、促されるまま隣のあいた席にちょこんと腰掛けながらそう尋ねた。手には持ち手付きの紙袋を抱えている。 「うん、しばらく勉強しながら教室で食べるってよー」 「そうですか……」  三年生グループの一人のその答えを聞いて、颯斗は俯き、袋の中身を覗き込んだ。  夏休みが終わってから、善は颯斗を避けるかのように教室の外に姿を見せなくなっていた。 「それ、なに?」  金沢が興味本位で颯斗の抱えた紙袋を指差した。 「はい、あのぉ、クッキーです」 「クッキー? どこの?」 「どこ……の? あ、えっと、うちの? です」 「手作りってこと?」 「は、はいっ! 母と作りました!」  何かおかしかったのか、金沢は少し驚いたように眉を上げた。  よくよく考えれば高校生男子が母親とクッキーを焼くのはちょっと珍しいのかもしれないと気がつき、颯斗は頬を赤らめ俯いた。 「善にあげるの?」 「はい……その、つもりだったんですけど……」  残念ながら今日も善には会えなそうだ。颯斗は肩を落とした。 「俺からわたしとこうか?」  落ち込んだ颯斗の様子をみて、金沢がそう声をかけてくれた。しかし颯斗は首を振った。 「いえ、あの、お詫びの品なので、直接渡して謝罪したくて」 「謝罪?」  金沢がまた眉を上げた。今度は首も傾げている。 「アノちゃんが謝罪? 善がアノちゃん虐めて謝罪するならありそうだけど、アノちゃんが善に謝罪するの?」  念押して確認するかのように、金沢は颯斗の顔を覗き込んだ。 「はい、あの、俺せんぱいに、失礼なこと言ってしまって……」 「失礼なこと?」 「はいっ……えっと……」  金沢のその問いはどんなことを言ったのだと聞いているのだろうが、颯斗は答えることを躊躇った。  金沢はそんな颯斗の様子を察したのか、それ以上の追求はしてこなかった。 「俺から善に言っておくよ、アノちゃんが会いたがってたって」 「あ、は、はいっ! ありがとうございます」  颯斗は金沢に深々と頭を下げた。  それからも度々颯斗は食堂やら体育館やら、中庭を訪れた。しかし、金沢らグループの他の先輩たちの姿はあれど、やはり善の姿はない。  それが数週間続いたある日、金沢がまた食堂で颯斗を隣の席に座らせると、気まずげに話を切り出した。 「そのままの言葉で伝えてくれって言われたから、そのまま言うね」  金沢がそう話し始め、颯斗はごくりと唾を飲んだ。  手には昨日母親と焼いたマドレーヌの入った袋を持っている。  母親もあの夜、善に冷たい態度をとってしまったことを申し訳なく思っているらしく、たまに二人でお菓子を作っていた。しかし今のところ善に渡すことはできず、残ったお菓子は金沢たちが食べてくれていた。 「頼むから、もう付き纏わないでくれ」  金沢は代弁者だ。その言葉は、颯斗の頭の中で善の声で再生された。 「頼む、から……」  颯斗は口元で小さく繰り返し、無表情のまま手元の紙袋に目を落とす。  いい加減にしろ、しつこい、ではなく、「頼むから」はなんだが切迫した心理状態を表現しているみたいだ。それだけ颯斗の存在を善は疎ましく思っているように感じた。 「アノちゃん……」  呆然とした颯斗を金沢が呼んだ。  颯斗は顔を上げる。  金沢の表情は眉を下げて心配そうに颯斗の表情を覗き込んでいた。 「善も受験で少しナーバスになってるんだ」  金沢の言葉に、颯斗は曖昧に頷いた。 「だから、今はそっとしておいてあげよう。受験が落ち着いたら、また話せるように俺も協力するから」  また颯斗は曖昧に頷く。  受験が終わるころ。  来年の春だろうか。

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