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16.言ってないけど(1)
「本当にすみませんでした」
玄関から戻るや否や、善はベッドの足元に膝をついて頭を下げた。
颯斗は衣服を直しながら、ベッドの縁に座り直す。
「いえ、俺も、びっくりしちゃってはっきり言えなかったんで、気にしないでください」
颯斗がそう声をかけても、善はなかなか頭を上げなかった。
先ほどの来訪者は善が本当に待っていた人物だったのだ。颯斗はその相手と勘違いされて、部屋の中に連れ込まれてしまった。
善が呼んでいたのは、Dom Subのプレイを専門とするデリバリーだったようだ。
颯斗は利用したことはないが、パートナーのいないDomSubが、対価を払って挿入以外の性的な接触を含むプレイを行い、欲求不満を解消させるのだ。
大っぴらに利用を明言するようなものでもないが、別に咎められるものでもない。実際多くのDomSubが日常的に利用していると颯斗も聞いたことがある。
「それより、こちらこそすみません、せっかくお呼びした方、帰らせてしまって」
颯斗が言うと、善はゆっくり顔を上げた。
「いや、流石にお隣さんに状況知られながらは、気まずいんで」
それはそうだろうなと、颯斗も苦笑を返す。
「あ、あの、ゼリー冷やしておきますね」
会話が途切れた気まずさから、颯斗は自らが持ってきた紙袋を再び手にして立ち上がった。
善の部屋は1DKで颯斗の部屋と同じ間取りだ。キッチンの場所も冷蔵庫の位置も検討がつく。颯斗は座り込んだ善の脇を通りそちらに向かう。するとすれ違いざまに、突然善に手を掴まれた。
颯斗は驚き、声すら上げられないままただ肩を跳ね上げた。善の手はまだ熱を持っていて、ついさっき自分の腰回りをそれが撫でたと思うと、颯斗の顔は無意識に紅潮していった。
「あ、えっと……」
「自分で入れます」
善はそう言って立ち上がると、立ちすくんでいた颯斗の手から紙袋を受け取りキッチンへ向かった。
考えてみれば、いきなり他人の家で冷蔵庫を開けると言うのは不躾だったかもしれないと、颯斗は恐縮した。
「すみません」
「え?」
無意識に溢れた颯斗の謝罪に善が振り返る。
「あ、いや。俺、帰ります。失礼しますね」
「ああ、はい」
颯斗は善に頭を下げて玄関へと向かう。
善は丁寧に玄関まで見送るつもりのようで、わざわざ颯斗の後についてきた。
颯斗が自分のスニーカーに足を入れたところで、再び善が颯斗の手を掴んだ。
今度は先ほどよりも多少冷静に颯斗は振り返る。
「えっと……?」
「あ、名前、聞いてなかったなって」
「あ、は、はいっ、そうですね!」
挨拶をしにきたと言うのに、突然のハプニングですっかり本来の目的を失念していた。颯斗は体ごと善を振り返った。
「隣に越してきた永井 と申します。よろしくお願いします」
膝に手を置いてまた深々と頭を下げた颯斗に、善は「永井?」と確認するかのように口元でつぶやいている。
永井は颯斗の母親の再婚相手の姓だ。以前は「芳川」を名乗っていた。
「永井さん」
「あ、は、はい」
「下の名前は?」
「えっ?」
一瞬背中が冷たくなるが、颯斗は平静を装った。
別に珍しい名前ではない。聞かれたら名乗ろうと決めていた。
「颯斗です。永井……颯斗」
善は無言のまましばらく颯斗を見下ろしている。
「えっと……?」
「永井さん」
「は、はい!」
「地元どの辺ですか?」
「えっ?!」
予想していなかった質問だ。
颯斗は焦り頭の中で考えを巡らせるが、咄嗟に嘘がつけるたちではない。
「東京……です」
「東京の?」
「あ、えっと、引っ越し何回かしていて、地元といえる地元はないんです」
これはあながち嘘ではない。
両親の離婚後一時期祖父母の家に間借りして、そのあと母と二人でマンションに移り住み、颯斗の病気療養で母の実家に戻った後は、再婚相手と暮らすためにまた引っ越しをした。
「へぇ……そうなんですね」
何か含みのある善の口調に颯斗は心拍を上げた。
大丈夫だ。自分はあの時と違う。苗字も変わっているし、さっき翔太にも言われたように見た目も別人になっているはずだ。
そう言い聞かせながら、颯斗は表情に無理やり笑顔を浮かべて見せた。
「お、大崎さんは地元どちらなんですか?」
「俺も、東京です。N区」
「へ、へぇ! じゃあ実家お近くなんですね」
「まあ、はい」
善は頷いた。その表情は愛想笑いすら浮かべず、何か観察するかのように颯斗のことを見つめている。
「永井さん」
「は、はい!」
「俺、名乗りましたっけ?」
颯斗は思わず息を吸い込んだ。
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