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16.言ってないけど(2)

 喉奥に空気が溜まり、それが胸に落ちて痛みに変わる。咄嗟に胸を撫で付けるが、脂汗がこめかみに浮かんだ。 「は、はいっ、さ、さっき、教えてくれましたよ!」 「そうでしたっけ?」  善は首を捻っている。 「じゃ、じゃあ俺はこれで……」  ボロが出る前にひとまず退散するべきだ。  そう思って颯斗が扉のノブに手を置くと、何故かまた善が颯斗の手を掴んだ。 「永井さん」 「は、は、はいっ」  今度は何を言うのかと、颯斗は手を掴まれたまま無意識に体を引いていた。 「すみません、まじでこんなこと言うの非常識だと思うんですけど」 「え、あっ、なんでしょう?」 「永井さんSubですよね?」  そう問われて、颯斗は唾を飲み込んだ。  それから声に出さないままゆっくりと顎を引いて頷いて見せる。  こちらを真っ直ぐに見つめる善の瞳に、また僅かに熱が灯っているのがわかった。 「さっき、お互い中途半端だったじゃないですか」  善に言われ、颯斗はまた情景を思い出して頬を赤らめながら頷いた。 「ちょっとだけでいいんで、プレイしません?」 「へっ⁈」 「もちろん、性的なことはなしで」 「あ、あっ、えっと」 「お互い中途半端だと、体に悪いですよね」 「そ、そうっ……で」 「ダメですか?」  善が颯斗の顔を覗き込んだ。整った綺麗な顔だ。それが今少しだけ目の下にクマを作っている。 「ダメ、じゃないです……平気です」  善にそんなことを言われたら、颯斗は頷く他なかった。  颯斗の答えを聞いた善は「よかった」と言って、無表情だった口元にほんの僅かに笑みを浮かべた。  きっと以前の颯斗に、善が笑いかけてくれることはもうないのだろう。別人だから、こんなふうに笑ってくれた。そう思うと、颯斗の胸がちくりと傷んだ。  善が体の前で両手を軽く広げた。何か行動を促すように、颯斗の顔を覗き込んでくる。 「えっと……」  戸惑っていると、また善が笑った。 「Hug(抱きしめて)」  そのコマンドで、颯斗は一歩善に歩み寄った。  ゆっくりと両手を広げ、善の脇に手を伸ばすと、颯斗が触れるより先に、善の腕が颯斗の背中に周り、体を抱き寄せた。  衣服越しの善の温もりが全身を包み込む。  鼻腔いっぱいにその匂いを吸い込むと、めまいがしそうなほど心地よかった。  颯斗は無意識に背中に回した手のひらで善の衣服を握った。  耳元で、善が笑いをこぼす。 「永井さん、心臓の音すご」 「あ、す、すみませっ……ん」 「いや、謝ることじゃないし」 「は、はいっ」 「慣れてないんですか?」 「へっ?! い、いや、そ、そういうわけでは」  善の手のひらが背中を滑り、颯斗は体をこわばらせた。緊張で背中に何本も針金を通したみたいに、その姿勢はぎこちない。 「あ、あのぅ……大崎さん?」 「はい」 「け、敬語、使わなくていいですよ、そのぉ……年上なんだし」  言うと、また耳元で善が笑った。 「じゃあ、遠慮なくそうさせてもらう」 「はい」  もそもそと肩口で善が動き、その鼻先が颯斗の首筋の匂いを嗅いだ。  くすぐったさに身を捩るが、離れがたくて、颯斗は堪えるように善の肩に額を押し付けた。  改めて今自分が善の腕の中にいるのだと考えたら、胸が熱くなってくる。目元には涙が滲み、颯斗は鼻を啜った。 「なんで泣いてんの、嫌だった?」  颯斗の様子に気がついて、善が少し体を離して颯斗の顔を覗き込んだ。颯斗は袖口で目元を抑えながら首を横に振った。 「い、いえ、花粉症です」 「……へー」  少し笑いながら、善は颯斗の頭を撫でた。 「Good boy(ありがとう)」  その手のひらが頬に滑り、親指が軽く涙を撫でた。  善の体が離れていく。  コマンドの幸福感とプレイが終わった寂しさが、同時に颯斗の中に浮かび上がった。  事後のような妙な気まずさが一瞬ながれ、颯斗はそれを打ち消すように笑顔を作ると一歩後ずさった。 「あ、あのっ、こちらこそありがとうございました」  そう言って深々と頭を下げる。 「じゃ、じゃあ、今度こそ帰りますね」 「うん、引き止めてごめん」 「い、いえ! それじゃあ」  最後に小さく会釈をして、颯斗は玄関の戸を押した。廊下に体を出して振り返りながら、もう一度善に頭を下げて顔を上げると、善は口角を上げたまま、ドアを抑えて颯斗の姿を見つめていた。 「あ、あのっ……なにか?」 「俺、言ったっけ」 「えっ?」 「年上だって、言ってないけど」  またら颯斗は変に空気を吸い込み、喉の奥がぐうと締まった。 「あっ、え、っと……そ、それは」 「まあ、いいや。おやすみ」 「それは、ただなんとなく……そ、そうおもっ……」  颯斗の言葉の途中で、パタリと玄関の扉が閉まり、善の姿は見えなくなった。

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