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28.俺たち
◇
夏の夜の湿った空気を嗅ぎながら、今は颯斗を送るため、最寄り駅から彼の自宅までの道のりを並んで歩いている。
プレイをしたせいか、ここ最近で一番頭がスッキリしていて体も軽い。鬱屈としていた感情も今はだいぶ薄らいでいた。だからこそ、やり過ぎたかもしれないという思いが浮かび上がり、善は隣の颯斗に視線を下ろす。
その表情は熱っぽく見えているが、事後も今も善に怯えるような素振りはない。
最中の颯斗は、善の行為を怖がって、嫌がっていた。それなのに、助けを求めて縋る相手は善しかいない。
その光景を脳裏に浮かべるとあの瞬間の興奮を体が思い出しそうだ。もっと虐めたいと思うのに、ほとんど飛びそうだった理性の中でもギリギリ挿入を避けたのは、嫌われたくないという自分勝手な思いがあったからだ。
「もう体調は大丈夫か」
「あ、はいっ、お、おかげさまで」
今日善がこんなふうに問いかけるのは、これで三度目だ。その度に大丈夫だと頬を染める颯斗を見て、大丈夫だ、嫌われていないと善は確かめていた。
「悪かったな」
「えっ?」
善が言うと颯斗は顔を上げた。
夜の住宅街、人通りはなく車もまばらだ。ガードレール越しの歩道は狭く、並んで歩くとすぐ隣にお互いの体温を感じる。
「いや、なんかいろいろ」
情事の記憶が脳裏に浮かぶ。
あんなに泣いて嫌がっていたのに、颯斗は善を拒絶しないし、最後に頭を撫でてやれば心底満たされたと言うように善の支配に身を委ねるのだ。
もうだめだ。全部手に入れたい。自分の手中に収めておきたい。きっと颯斗もそうされたいはずだ。
「あのさ」
少し続いた沈黙を、善がまた静かに割った。
「俺たち……」
言いかけたところで、ポケットの中でスマホが震えて音を鳴らした。
颯斗が手にしていたスマホから顔を上げたので何かを送ったらしいと察し、善はポケットからスマホを取り出した。
「なにこれ」
足が止まる。善は画面を見つめながら眉間に皺を寄せた。
「あ、あの、ホテル代です、さっき払ってもらっちゃったんで」
「あきらかに多いけど」
画面には颯斗からの電子マネーの受信履歴が表示された。ホテルの休憩代にプラスして三万。金額がリアルだ。頭に血が昇る。
「あ、はい、大丈夫です! お年玉とか、あんまり使わなくて」
「いや、なんで」
「あの、前に調べたんです、俺」
「なにを」
「プレイをお願いする時の謝礼って、どのくらいなのかなって……その分を、えっと、上乗せしました」
「は」
「あ、た、たぶん相場かなって思うんですけど、た、足りませんか?」
「意味わかんね」
「え、あ、あの、今日、すごく助かったし、なんていうか、とてもいい思い出になったので」
「は? 思い出? は?」
――なんだコイツ。俺のこと好きなんじゃないのか? まじでただプレイしたかっただけ? ふざけんな。
「おまえ、これ、意味わかってやってる?」
「え、あ、あの……プレイしてもらったので、謝礼を」
「なに、おまえ、俺のこと風俗かなんかだとでも思ってんの?」
善が言うと颯斗の顔がみるみる青ざめていく。こちらの怒りに気がついたようだ。
善は苛立ち、自身から沸々とグレアが溢れ出しているのを感じている。
「あ、せ、せんぱいっ、違います! そういうつもりじゃっ!」
颯斗は縋るように手を伸ばし、善の手を握った。しかし善はそれを払い除けた。
「ないわ、おまえ」
「せ、せんぱ……い……」
感情が昂って、グレアが制御できない。
想定外に傷ついている自分を誤魔化すみたいに、善は颯斗を突っぱねた。
強いグレアを正面で受け、颯斗の呼吸が荒くなっていく。やがて足元を掬われたかのように、その場に崩れ落ちていった。
その光景で、善は我に返った。
「颯斗‼︎」
悲鳴に近い叫び声が夜の住宅街に響いて、そのあとバタバタと足音が近付いてきた。
顔を上げると颯斗の母親だ。前に保健室で会った時よりももっと青ざめた顔でこちらに駆け寄ってくる。
「大丈夫⁈ 颯斗!」
颯斗の肩を支えて、泣き出しそうな母親が必死に彼の名前を呼んでいる。
「大丈夫……」
と、颯斗は掠れた声でそれだけ答えた。
なんてことをしてしまったのか、と善の手が震えた。
「おばさん……」
狼狽えて閉じた喉で、善はかろうじて絞り出しだ。しかしその後の言葉が浮かばない。
「大崎くん、ここまで送ってくれたのね、ありがとう」
母親は善と颯斗の間に何があったのかを尋ねなかった。しかし声音には僅かな怒りが混ざっている。
「あの、俺……」
「ここまででいいから、あなたもう帰って」
「でも……」
「いいから帰って!」
母親が声を荒げた。吐く息は震えている。
颯斗は善を振り返らないまま、母親に支えられその場を去っていった。
善はその二人の背中を見つめながら、しばらくの間ただ呆然とその場に立ち尽くしていた。
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