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第3話
「ここは一体どこなんだ」
確か十三号館を出てまっすぐ進み、黄色い線を引いた建物を右に曲がれば着くはずだ。
智美に散々言われた道順は嫌でも暗唱できる。
だからそれ通りに進んだのに、どうして学食がない?
伊織の視界には建物はおろか、人の姿も見受けられず、目の前に広がるのは草原ばかり。本当に都内に建てられた大学とは思えない緑豊かな場所だ。
六限後ともなれば学生の数はぐんと減り、残るのは部活に勤しむ人ぐらいのはずだが、それも見当たらない。
智美に迎えに来て貰いたくても携帯の充電は切れている。
ツいていない時はとことんツいてない。
迷子になったら元の道まで戻るのがセオリーだ。面倒に思いながらも伊織は踵を返す。
同じ科の人が残っているのを期待したが、十三号館の前に着いても人っ子一人いなかった。
エントランスの方に視線を向けると写展を眺めている学生がいる。ようやく人に会えたことに嬉しくなり、伊織は中に入った。
「聞きたいことがあるんだけど」
伊織が声をかけると写真をみていた男の肩が大袈裟に跳ねた。怯える小動物みたいな視線を向けた男は佐倉航だ。
近くでみると作り物のように顔が整っている。線を引いたような二重に高い鼻梁、柳眉と一つ一つのパーツが最上品をあしらえ、丁寧に作り込まれた相貌をしている。
伊織は美しいものに目がない。カメラマン志望ということもあり、美に対して貪欲だ。
こんな美男子を撮れたら楽しいだろうと頭の中で構図が次から次へと浮かんでくる。
「どうかしましたか?」
意識がトリップしている伊織を、航は不安げに見下ろしていた。茶色がかった瞳は瞬きするたびに光りを増す。
「写真撮らしてくれないか?」
気が付けば自然と口をついていた。航は驚いたように瞠目し、すぐに目線は床に落ちる。
「無理です」
「そこをなんとか」
「できません」
「謝礼は払えないけど、それ相応のことやるからさ」
「なにをされてもできません。迷惑です」
航の頑なな態度にますます意地になってしまう。こうなったらどんなことをしても撮ってやると負けず嫌いな性分が顔を出す。
肩に下げたカメラを構えると、下を向いていた航の表情に色味が消え、代わりに怯えるように蒼白になった。
大きな手のひらでレンズを覆われてしまい、ファインダーは真っ暗だ。
「やめてください!」
航の怒声がエントランスの壁に反響し、何度も鼓膜を震わせた。そこまで怒ることかよ、と伊織は興ざめした気持ちでカメラを下ろす。
「おまえモデルだろ? 撮られることが仕事だろ。プロじゃないただの学生に撮られるほど安くないってか」
ありったけの罵詈雑言をぶつけられても、航は唇を白くなるまで引き結び黙ったままだ。
反抗してこないことをいいことに、加虐心が牙を剥く。
「そんなにお高くとまってるといずれ人気が落ちるぜ。顔だけじゃなくて心も人形みたいに感情がないんだな」
「それはいおちゃんでしょ!」
頭頂部に手刀が落ちてきて目の前に火花が散った。脳天を突き刺す痛みに目尻に涙が溜まる。頭を抱えて振り向くと仁王立ちした智美が伊織を睨みつけていた。
「遅いと思って迎えに来たら、航くんに何してんのよ!」
「何もしてねぇよ」
「本当に?」
白い目で睨みつける形相はメデューサを彷彿とさせた。石にされたように身体の自由が効かない。
「……写真撮らせてくれって頼んだら断られたんだよ」
「あったり前でしょ。航くんはプロなんだから、私たちみたいな学生とは違うの。航くんごめんね。これ私の従兄弟なの。人の気持ちに鈍感で周りが見えなくて写真莫迦でどうしようもない奴だけど、悪い人じゃないのよ」
「フォローになってねぇ」
伊織の一言にまた手刀が振ってきた。床に転がって痛みにもがいていると智美はふん、と鼻を鳴らす。
「俺も少し言い過ぎました」
「いいの、航くんはなにも悪くないよ。どうせこの莫迦が無理矢理写真撮ろうとしたんでしょ。護る会として、いおちゃんのこと処分しとくから心配しないで」
「すいません」
「気にしないで」
航は伊織に一瞥すると小さくお辞儀だけして、この場を去ってしまった。
「さて、いおちゃん。あなたをどうやって処罰しようかしら」
「待て待て。どうして智美がそこまで怒るんだ?」
「そっか。言ってなかったよね」
智美は鞄から会員カードを取り出し、伊織の目の前に掲げた。
「私は「航を護る会」に入ってるの。簡単に言えば非公式のファンクラブで、主な活動は航くんの学生生活を平穏に過ごせるようにサポートすること」
「はあ」
従兄弟の新しい面をみて言葉を失うが、伊織の様子に気にかけることなく智美は続ける。
「厳しい掟がいくつもあるんだけど、その中に航くんに危害を加える人がいたら厳重に処罰するって決まりがあるの」
「俺は危害を加えたつもりはない。ただ写真を」
「勝手に撮ろうとしたんでしょ?」
有無を言わせない智美の言葉に伊織は口を閉じてしまう。確かに航の気持ちなど考えずに写真を撮ろうとしてしまった。気が短いのは伊織の欠点だ。
「航くんには航くんの事情があるの。いおちゃんの気持ちはわかるけど、航くんのことも考えてあげて」
「……悪かったよ」
「それは私じゃなくて航くんに言ってあげて。では会員番号一番の横石智美が深町伊織に処分を命じます」
智美は人差し指を伊織に向かって突き刺した。
「ちゃんと航くんに謝ること。子供じゃないんだからできるでしょ」
「そうだけど」
冷静になってくると、写真を撮らせてもらえないだけでムキになりすぎていた。
伊織の言葉に航はなにも言い返してこなかった。唇を結び、じっと耐えていた。あんなに言われて悔しくなかっただろうか。自分の言葉を反芻し、胸が痛んだ。
「いおちゃんは昔からそう。頭に血に上りやすくて後先考えずに行動して、時間が経ってから反省するの。その悪い癖、いい加減に直しなさい」
「うるさい」
「おー怖い怖い」
智美は大袈裟に肩を震わせる仕草をした。
「ちゃんと謝れば航くんは許してくれるよ。彼はすっごくやさしい人だから」
「やさしいねぇ」
写真を撮らせて欲しいと言ったときの航の怯えた表情が浮かぶ。恐喝のように脅してしまったので許してもらえるかどうか。
「航くんはいおちゃんと同類だからかもね」
「どういうこと?」
「航くんと話したらわかるよ。じゃあ帰ろうか」
智美は役目を終えたように清々しい表情に戻り、伊織を促した。釈然としない気持ちだったが、伊織は智美の後ろについていき、帰路についのだった。
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