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第11話

 木曜の四限に撮影として使っていた大学院へ足を向けた。  どんよりとした厚い雲に覆われた空は、憂鬱な気分と相まって伊織の気持ちをさらに落ち込ませる。  廃墟と化した建物に着き、あたりを見回したが誰の姿もない。その事実にまた肩を落とし、伊織はよく撮影していた木の下に腰をおろした。  来てくれるだろうか、もう嫌になってしまっただろうかとやきもきながら、手持ち無沙汰でカメラをいじる。  いままで撮った写真を見返していると、航の成長がコマ送りでわかる。  恐怖で身体に力が入り不自然なポージングをしていたのに、段々と表情が明るくなりポーズも格好良く決まっていた。  一枚の写真に手が止まる。写展に出したいと思ったもので、航が暴言を吐いてしまった原因の一枚だ。  伊織も未熟なくせしてたった一枚いい写真が撮れたからといって天狗になりすぎた。だが、あそこまで自分を卑下されると、航を撮りたいという伊織の気持ちすら踏みにじられたように感じて腹が立つ。  だからもっと自分を誇って欲しい。  繊細で傷つきやすいけど、本当はやさしくて誠実な人だとわかったから。  雷鳴が遠くで轟き、伊織の肩が大きく跳ねた。ねずみ色の空はいまにでも雨が降り出してきそうだ。  腕時計をみやるととっくに四限の講義は始まっている時間だった。辺りを見回したが航の姿はない。  「やっぱり来ないか」  傷口に塩を塗るような真似をしたのだ。  どんなに航がやさしい人でも、さすがに嫌になるだろう。  雨粒がぽつりと鼻先に落ち、すぐにバケツをひっくり返したような雨が降り出した。  ザァザァと勢いを増し、緑葉の隙間から雨が降って伊織を濡らす。急いでカメラをバックにしまい、濡れないように胸に抱えた。  強い北風が吹き、伊織の体温を奪っていく。  夏だからと甘くみていたが、肌を露出させている分、そこから体温が暴れてしまう。  この雨足の中、外に出る訳にもいかず途方に暮れていると、大きなビニール傘が目に入った。ゆっくりと近づいてくる人物に目を凝らすとゆらゆら揺れる歩き方すら格好良く決まっている。  伊織の姿を認めると航は青い顔をして駆けだした。  「どうして……」  「やっぱ言い過ぎたなと思って。ごめん」  「そんなのどうでもいいでんす!どうして俺が来なかったのに帰らなかったんですか」  「でもおまえは来てくれたーーくしゅんっ!」  伊織がくしゃみを零すと、航は慌てて自分の羽織っていたシャツを肩にかけてくれた。  冷たくなった伊織の指を両手で包み、祈るように額にあてる。  航の体温に包まれて指先に血が通う。距離が近くなり、どきどきと脈を打ち始めた。  濡れてぺしゃんとした髪も顎に溜まる雨粒も、まるで映画のワンシーンのように目を奪われる。  撮りたい、と気持ちが高ぶったが、両手は航の手のひらの中だ。  「指は大切にしてください」  「大丈夫だ」  「駄目です。先輩の指はカメラを撮るためにあるんですから」  顔を上げた航にみつめられ、頬が火照り始めた。星を閉じこめたような瞳に絡め取られると胸が騒ぐ。  「行きましょう」  「どこに?」  「俺の部屋、ここからすごく近いんです。このままでいるわけにもいきませんし」  「でもカメラが」  「ビニール袋持ってるのでこれに入れて口を縛っておきましょう。俺が抱えるので、先輩は傘を差してください」  言うだけ言うと航はビニールにカメラバックを入れ豪雨の中、駆け出した。伊織は急いで後を追う。  目を開けるのもままならない雨粒が顔を打ちつける中、航の背中だけを追った。  無我夢中だったこともあり、あっという間にマンションのエントランスに着く。  エレベーターに乗り最上階に着くと、一番奥の扉屋の前で航は止まり、慣れた様子で鍵を差し込んだ。  「ちょっと汚いですけど」  「……お邪魔します」  靴を脱いで上がるとバスタオルを投げられる。  「すぐ右が風呂なんで入ってください。濡れた服はそのまま洗濯機に入れてください」  「おまえはいいの?」  「……俺は後でいいです」  「じゃあ遠慮なく」  伊織は右手のドアを開けて、服を脱いで浴室にはいった。熱いシャワーを頭から被ると、冷えていた体温が戻ってくる。  浴室からでるとバスタオルと新品の下着とジャージが準備されていた。それに着替えてリビングへ向かうと、航はちょうどキッチンからカップを運んでいるところだった。  「風呂、ありがとな」  「随分早いんですね。もっとゆっくりでも」  「平気だよ」  「コーヒー淹れたんでよかったらどうぞ」  ローテーブルにカップを置くと、航もすぐに浴室に引っ込んだ。他人の部屋に一人取り残され心許ない。あまりきょろきょろするのも失礼だろうと思いながらも、自然と観察してしまう。  家具家電が必要最低限しかなく、モデルルームのように生活感がない。ただベッドの布団が乱れていて、唯一生活感を表していた。  「あ、カメラ」  航に預けたままのカメラは新聞紙を敷いた床に置いてあり、カメラバッグは窓際に干されていた。壊れていないか入念にチェックするが、問題なさそうだ。  伊織が風呂に入っている間、航はカメラを干してコーヒーまで出してくれた。その心遣いが航らしい。  「カメラ大丈夫でしたか?」  振り返るとスウェットのズボンだけの航が濡れた髪を拭きながら部屋に入ってきたところだった。細いと思っていた上半身はほどよく筋肉がつき、均整がとれていた。  同じ男とは思えない体格に見惚れてしまう。  「……平気」  「よかったです。壊れたらどうしようかと不安だったんですけど」

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