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二十三 どうしたいのか。どうなりたいのか。

 酒の匂いとシャンデリアのキラキラした光。『アフロディーテ』のは今日も盛況だ。  八木橋は接客にはあまり積極的に顔を出さないが、遠くから店内を眺めることが良くある。女の子たちは笑顔を絶やさず接客し、黒服は油断なくサービスを提供している。八木橋が店に立っていると、年配の常連たちは顔を知っているため、よく挨拶をしてくれる。時には席に誘われ、酒を奢られることもあった。あまり気の利いたことの言えない八木橋ではあったが、夜の街で長年店長をやっている癖に、未だにすれた様子のない八木橋は、常連たちに気に入られていた。 「そろそろ、自分で店を持つとか考えないのかい?」  常連の上杉にそう問われ、八木橋は苦笑しながらグラスを傾ける。七十になって店に通う頻度が少なくなったが、十年も通っている常連だった。上杉は店に来るたび、「店長さんはいるかい?」と必ず一杯だけ酒を奢ってくれる。 「雇われが気楽というのもあるんですが、作りたい店というのもないので……」 「あんたなら、良い店を作ると思うけどねえ。女の子たちも、半分くらいは着いてくるんじゃないのかい?」 「そんなに人望ないですよ」  過大評価だ。と、八木橋は思う。店の子たちとの関係が悪いとは思っていないが、そこまで慕ってくれているとは思っていない。そう言うと、上杉はふんと鼻を鳴らした。 「二号店も行ってみたが、儂はこっちが好きだがなあ。|本店《・・》のほうが、実家のような気分になるもんだ」 「そう言っていただけると、嬉しい限りです」  上杉が『本店』というのを、八木橋は困ったように笑った。『アフロディーテ』の一号店であるこの店は、古さで言えば二号店よりも先に出来たが、オーナーが直接経営しているのは二号店の方だ。本店というのなら、二号店の方が本店だと、八木橋は思ってる。実際、今はナンバーワンの売り上げこそ二号店よりも売り上げているが、店全体では二号店の方が成績が良い。客層も、上手く循環しているのは二号店の方だった。 (自分の店、かあ……)  考えたこともない。自分には無関係なこと。ずっとそう思ってきた。漠然と、『アフロディーテ』がなくなったあとを想像してみても、自分が何者になるのか解っていない。 (僕は、『アフロディーテ』は嫌いじゃない。むしろ――好き、だよね)  今まで、改めて思ったことがなかった。八木橋は自分が何かを作り出す人間ではない。自分自身はプロフェッショナルではないが、そう言う人たちを抱えて、裏で支えるのは、好きな仕事だと思う。そういう意味で、『アフロディーテ』の店長という仕事は、八木橋に合っているのだろう。 「……でも最近、リタイアしたら大学に通いたいと思うようになりました」  八木橋の言葉に、上杉は目を丸くし、次いで呆れた顔をした。 「リタイアって、一体、何年後の話だい」 「あはは」  七十の上杉に、四十間近の八木橋が言う言葉ではなかったかも知れない。 「まあ――でも、この歳になっても、やりたいことって見つかるものなんですね」 「なにを寝ぼけたことを言ってるんだ。年寄りみたいなこと言いやがって。でもまあ」  上杉はグラスを傾け、ウイスキーを呷った。 「一つ助言するとな。今日が一番、若いんだぞ」 「――確かに」  確かに。明日よりも、今日の方が若い。刻一刻と、否応なしに歳をとる。今日が一番、若いのだ。  チャレンジは、何歳になっても出来るかも知れない。だが、時間は有限で、体力は今が一番ある。本当にやりたいことが出来たなら、迷う暇はないのだろう。 「ま、俺はこの店がなくならなきゃ、別に良いんだけどよ」  上杉の言葉に、八木橋は笑みを浮かべて「ありがとうございます」と返事をした。酒の礼を言い、席を立つ。『アフロディーテ』の店内は、夢のように美しい。この風景の中で、自分は夢を見られていただろうか。 (今が一番、若い……か)  何でもやれるのは、今が一番なのかもしれない。『いつか』というタイミングを待っていても、誰かが何かを変えてくれるということはなく、何かを変えたければ、自分で動くしかない。それは、八木橋にも解っている。『アフロディーテ』での十年は、変化に富んだものではなかった。何度か、八木橋の人生を変えるようなことがあったかも知れない。でも結局、八木橋はそれを選んでこなかった。  ふと、アオイのことを思い出した。アオイとの出会いは、新しいきっかけだ。けれど変化は、それだけでは起こらない。根本的なところは、八木橋が決めるしかない。  八木橋はどうすれば良いのか、自分はどうしたいのか。どうなりたいのか――。『アフロディーテ』のフロアを見ながら、静かに考えていた。

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