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第9話
半地下の階段を降り扉を開けると、マスターが二人に気づく。
カウンターとテーブル席には数人客がいたようでマスターの声で気づいたように出入り口を見た。
「おーう、学校お疲れ。」
「あの二人が、噂のバイト君達かい?」
「えぇそうです。」
カウンターの老紳士は立ち上がり翠と鷹生に話しかけた。
スラリとした背格好に彫りの深い西洋な顔立ちに焦げ茶色のスラックスとサスペンダーがよく映えている。
「こんにちは、二人とも。私はシュトルヒ。ピアノの調律師でここにはよく来るんだが、君たちの事をマスターから聞いて楽しみにしていたよ。」
「僕は翠と申します。…ほら、お前も挨拶しろ。」
そう言ってシュトルヒと名乗る老紳士の差し出された右手を翠は握り返し自己紹介をした後、後ろで緊張して固まっている鷹生にも挨拶をするよう促すとおずおずと自分の前にある右手を握り返すとガッシリと握られる。
それに動揺したのか焦って喋りだす。
「お、おお、俺、は…鷹生と言います!よ、よろしく、お、お、おねが…!」
「はははっ!緊張して全然喋れてないじゃねぇか!」
マスターが大きく口を開けて笑うと鷹生はカァッと顔を赤くする。
それを見たシュトルヒは微笑んで言った。
「なに、そう緊張することはない。いつものようにしていれば良いのさ。」
その後、翠と鷹生はバックヤードへ向かい着替えるとマスターの元へ向かった。
マスターはこの時を待っていたかのように軽い足取りでピアノの方へいくと、ピアノカバーを取り外す。
不安そうな鷹生を半ば無理やり椅子に座らせた。
「それじゃあ、よ・ろ・し・く!」
「……。」
冷や汗を垂らしている鷹生をみた翠は「やれやれ」と言った表情で鷹生に近づくと、ポンポンと肩を二回叩いて言った。
「大丈夫、ここからカウンターを覗けば僕がいる。だから、安心して弾け。」
「は、はいっ!」
腹を括ったのか鷹生は背筋を伸ばした。
それを見た翠はこれで大丈夫だと確信してマスターと共にカウンターへ入っていった。
小さなステージの上でライトに照らされながら弾きはじめ、ピアノの音が店内に響くとシュトルヒは珈琲を口につけながら耳を傾ける。
奥のテーブル席に座っていた二人組もピアノの方へと目を向けた。
その曲は喫茶店に似つかわしいのかも難しい、ベルガマスク組曲一番「プレリュード」はドビュッシーの曲で、翠も当然のように知っているのか皿洗いをしながら微かに身体が揺れていた。
ふと、手元からピアノの方へ目をやると鷹生と目が合う。
鷹生は翠以外は暗く見えていないのか翠に向かって屈託のない笑顔を見せた。
その後も鷹生は止まらずピアノを引き続ける。
六時を過ぎると喫茶店はバーに代わり、酒を求めた大人達は来客する度に奥から聞こえるピアノの旋律に驚き注文をそこそこに近くの椅子に座ってただじっと聴いていた。
あっという間に時間が過ぎ、次に鷹生がカウンターを覗くと翠が手首を指差した。
(もう時間だ。)
その合図を汲み取った鷹生は最後の曲を弾き始める。
静かに奏で始める曲は「戦場のメリークリスマス」だ。
鷹生の大きく太い指が繊細にピアノの鍵盤をなぞっていく。
終盤に近づくと段々と曲の力強さが増していき、遂に弾き終わる。
ゆっくりピアノから手を離すと、店内に響き渡るほどの大きな拍手が鷹生に降りかかった。
驚いた鷹生が店内を見渡すと、既に二十名近くの大人達が鷹生に向けて称賛の拍手を送っているのが目に入る。
その中にはシュトルヒもいて、拍手をしながら鷹生に近づき話しかける。
「いやぁ、思った以上の実力だった。だがしかし、君はきっとまだ上を目指せる。大丈夫だ、ここにいる全員もう既に君のファンになっているのだからね。」
そう言ってウィンクをすると、シュトルヒは珈琲代を払って喫茶店を後にした。
翠と鷹生も制服に着替え喫茶店から出る。
二人の手にはマスターから今日のバイト代として渡されたペーパーにくるまれたサンドイッチが乗っていたが、手に持っているそれをどうしようか迷っている翠を鷹生は近くにある公園へと連れていく。
雨上がりの公園は土に水が含みぬかるんで土と雨水の匂いを漂わせていた。
鷹生は公園の端にある小さな東屋を指差した。
「あそこで一緒に食べてから帰りません?」
「あ、…うん。」
屋根の下のベンチに腰かけると二人はサンドイッチを食べ始めた。
終始無言で食べる翠に鷹生が話しかける。
「うまいっすね、これ。」
「あぁ…うん、うまい。」
「今日の俺、どうでした?」
鷹生がそう聞くと、翠は口に入っているものを飲み込むとゆっくり答えた。
「まだ改善点の余地アリだな。テンポに若干のバラつきがあったり、強弱の付け方が甘い。」
翠の辛口な評価に鷹生は肩を落とす。
それでも構わず話を続けた。
「でも、お前はやっぱり良い演奏をする。実際、良い演奏をしたからあれだけの称賛を浴びれたんじゃないか。」
「あ…。」
鷹生は思い出した。
マスターの店で最初は翠にだけ弾いているつもりでいたが、知らず知らずのうちに大勢の前でピアノを披露していたのだ。
その間、誰も鷹生を笑うものなどいなかった。
「男のくせに」そんな言葉は誰からも聞こえず、ただ聞こえるのは大きな拍手と見えるのは大勢の笑顔だったことに気付く。
始めての体験をした鷹生の心臓が激しく鼓動している。
しかし、鷹生が一番嬉しく思ったのは大勢からの称賛よりも目の前にいる人物からのそっけない言葉の中にあったのである。
鷹生は嬉しさのあまりに手に持っているサンドイッチを平らげた。
その早さに目の前の少年はただ驚いていた。
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