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第12話
次の日の昼頃、翠と鷹生はマスターの喫茶店で待ち合わせをしていた。
先に待っていたのは翠で、マスターからサービスで出されたホットココアをカウンターで飲みながら鷹生の到着を待っていた。
鷹生はどうやら朝から畑の手伝いをして遅れるようで、メッセージを残している。
暫くすると扉が開き、付属のベルが入店を知らせる音がした。
目を向けると、走ってきたのか少し息を切らしながら鷹生が入ってくる。
「すみませんっ、お待たせしましたぁっ!」
「別にそう急いで来なくたっていいだろう。今日は晴れてるとはいえ、地面もぬかるんでるから転ぶかもしれないだろ。」
額から流れる汗を拭う鷹生に話す。
温くなったココアを飲み干すと、翠はマスターに声をかけ鷹生を連れて店を後にした。
二人で歩いていると、徐々に商店街から離れ大きな畑が幾つも並び開放的になってくる。
道の先、山のすぐ近くに一軒の古民家が見えると鷹生は指を指していった。
「あれが俺の家です。多分、そろそろじいちゃんも昼飯の時間じゃないかな。」
「お前の家大きいな…。」
そんなことを言っている内に鷹生の家の方から犬の吠える声がする。
段々と近くに行くと、その声の主は鷹生に飛び付いた。
足に付いた泥が鷹生の服にベッタリと付くが、当の本人は気にせず撫ではじめる。
「はいはいただいま~文太郎、今日はお客さんが来ているぞ~。」
そう言いながら翠の方に目をやると、触りたいのかウズウズしていた。
「コイツが文太郎です。先輩も、撫でてみます?」
「い、いいのか…?」
「もちろん!まず手の匂いを嗅がせて…顎の下をゆっくり触ってあげてください。」
鷹生の言う通りに行うと、文太郎は翠の手に鼻を近づける。
噛まれると思いビクリと震える手をフスフスと匂いを確かめると、自分から顎を差し出し気持ち良さそうに顔を押し付け尻尾を振った。
モッフリとした毛に埋もれる翠の指に今まで感じたことの無い感覚が伝わる。
動物の暖かさと早い鼓動に胸を踊らせた。
そのまま撫でていると、畑の方から一層低い声が聞こえる。
思わず振り返ると、そこには難しい顔をした老人が立っていた。
着ているツナギは土に汚れて桑を肩にかけている。
恐らくこの人物が鷹生の祖父なのだろうと翠は思った。
己の祖父にたじろぐ鷹生に対し、翠は堂々と向かい合い会釈をする。
「なんじゃ、タカの友達か。」
「はじめまして、佐々木翠と申します。今日は、お爺さんにお願いがあり伺いました。」
「…、とりあえず上がれ。」
顔色を一つ変えず家の奥へと入る鷹生の祖父と入れ違いで鷹生の祖母が翠を出迎えた。
翠は手に持っていた紙袋から箱を取りだし手渡す。
「はじめまして、佐々木翠と申します。こちらつまらないものですが、皆さんで召し上がってください。生物ですので出来るだけ早い内にどうぞ。」
「あらあらあら、わざわざどうも!いっつもタカちゃんがお世話になっちゃって、ありがとうね!いま丁度うんと冷えた麦茶があるから、上がって頂戴!」
そう言って翠を迎え入れると、茶の間で鷹生の祖父が座り既に二人を待っていた。
正座すると、目の前に置かれた麦茶を一口飲む。
暫くの沈黙の後、鷹生の祖父が口を開いた。
「…で、なんじゃ、早く言わんかい。」
「え、えっと…その…。」
「率直に言います。納屋にあるピアノを使わせてください。」
「何のために。」
「ピアノを弾く鷹生を、動画に撮って投稿させていただきたいのです。」
「どうが?」
翠の言葉に鷹生の祖父は目を見張ったが、その凄みに臆せず翠は話続けた。
その間、鷹生の祖父が口を開くことは無かった。
「鷹生が昔からピアノを弾くことが好きなのは知っていると思います、同時に今弾けていないことも。それは鷹生が昔、同級生に言われた『男のくせにピアノを弾くのは可笑しい』という言葉によるトラウマが原因です。でも、彼のピアノは才能が溢れていて、それを知っている人間が僕以外にも既に数人居ます。それでも、鷹生はまだ多くの人の前で弾くことが出来ません。そこで、僕らしかいない場所で顔を隠して動画を撮って、より多くの人に聴いて貰おうと思いました。しかし、僕らはまだ学生で自分達だけの判断で行動には移せません。なので、納屋の持ち主であり保護者でもあるお爺さんにお願いをしに来た次第です。」
翠が喋り終わると、口を開いた。
翠に真っ直ぐ投げ掛けられた言葉はズッシリと重くのしかかる。
「それはタカが望んどる事なんか?もしその動画っつうモンを出してタカを傷つけるより多くの言葉が届いた時、お前はどうしてくれる?」
「それは…」
翠が答えようとした時、大きな声で遮られる。
その声は鷹生自身の声だった。
「じいちゃん!俺…俺、実はバイト先で二時間だけピアノを弾かせてもらってるんだ。最初は、皆に聴かせるなんて…て思ってたんだけど、色んなお客さんがピアノを弾く男の俺を見ても何も言わない、むしろ拍手をくれて…、俺、嬉しかったんだ。だけど、やっぱり俺の中では言われたことが頭に残ってて…、大勢の前で弾くことはできない。でも、先輩なら…、翠先輩の前でならっ…俺、心から弾けると思うんだ!」
「だから」と続けようとしたところで鷹生の祖父が言葉を遮った。
鷹生の目を見て、はっきりとした言葉で短く話した。
「もういい。納屋と行っても前に住んでた家の方じゃ、鍵は玄関に掛けておくから勝手に使えばいい。」
祖父の言葉に二人は顔を明るくする。
祖父は「それに」と話を続けたが声は小さかった。
「一人で気兼ねなく弾けるように移したつもりで…。」
「じいちゃん…。」
鷹生がそう呼ぶと、焦ったようにその場を離れた。
ずっと聞いていたのか、台所から出てきた祖母が笑顔で二人に耳打ちした。
「おじいちゃんね、本当は寂しかったの。急にタカちゃんのピアノを聴けなくなったのが。楽しそうにピアノを弾くタカちゃんを見るのがおじいちゃんの楽しみだったからね。きっとまた聴けると思ったら嬉しくなっちゃって、どっか行っちゃったのね。」
そう嬉しそうに言うと、二人に茶菓子を渡して台所に行ってしまった。
鷹生が隣にいる翠に目をやると、微笑んでピースサインをして見せ小声で話しかける。
「やったな。」
その言葉にようやく実感を得たのか満面の笑みで返事をした。
二人で茶菓子のどら焼きを食べていると、鷹生の祖父が鷹生に向けて鍵を投げ渡す。
鍵には古いキーホルダーがつけられており、納屋の鍵だということに気付くのに時間はかからなかった。
二人は早速納屋に行ってみることにした。
家の裏の少し遠くに寂れた小さな家がポツリと建っていた。
鍵を差し込むと簡単に施錠が解かれ、扉が開かれる。
覗くと中は納屋と呼ぶにはとても綺麗な状態で、奥の部屋にピアノが見えた。
靴を脱いでピアノの方に近付く。
椅子に座り蓋を開くと綺麗に手入れされた鍵盤が目に入る。
鷹生が試しに一音ずつ弾いてみるが、音のズレを感じなかった事に二人は疑問に思う。
「ちゃんと調律されてる…もう何年も弾いてないのに、なんで…。」
「もしかしたら、ずっとお爺さんはお前がもう一度弾くことを決心した時の為に手入れしていてくれたのかもな。」
翠はそう言って鷹生の肩に手を乗せる。
翠の言葉に鷹生は祖父からの大きな愛情を感じ、ゆっくりと奏ではじめた。
その曲は鷹生がかつて家族に見守られ、何度も失敗しながらも一生懸命に弾いていた。
フランツ・リストの「愛の夢」。
後ろで小さく歌う翠の声を聴きながら鷹生は引き続ける。
ピアノの音色は母屋まで届き、縁側では老夫婦二人が静かに耳を傾けていた。
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