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菓子屑とヨタカ

 島で生活していた頃、ナギはどこでも行けた。  幼い頃から出歩いていたナギは、街のほとんどの場所を知っている。  知り合いばかりの街では迷子になっても、誰かがナギに気づいて、城まで送り届けてくれた。  海へ行けば、竜神が待っている。  毎日のように、竜神と一緒に島の周りを散歩した。  竜神の加護(バリア)があれば、海底へも潜ることができた。泳げないナギが海を怖がらずに済んだのは、竜神のおかげだ。  それが今、ナギは、決められた狭い範囲しか行き来することができない。  王と、王に許された数名しか入れない敷地内にある家の中が、ナギに与えられた自由だった。  ナギは時間の多くを、庭に面した、一階のバルコニーで過ごした。  バルコニーは表と裏の両方にあり、裏の方は手入れがあまりされておらず、忘れられたような庭だ。ナギは日中、大体そこにいた。  島にはない珍しい花や木々、そしてそこに集まる動物や鳥。  当初は、部屋で鬱々と、泣いては眠るを繰り返していた。  そんな心に日が差したのは、ナギの部屋の窓の外に、鳥たちが姿を見せ始めた時からだ。 「またここにいたのか」 「将軍……」  庭の草木を掻き分けて現れたのは、島でナギを助けた将軍のヨタカだった。 「ほら、食堂から貰ってきた。あげるといい」 「あ………。あ、ありがとう」  戸惑いながらもそれを受け取る。  布を開き、中身を草の上に撒く。  すぐに鳥たちが集まり、ご馳走をつつき始めた。  一生懸命に草の間をつついてまわる鳥たちに、ナギが表情を柔らげる。  鳥の様子を見守っていたナギだったが、ふと、自身を見る視線に気づいた。  顔を上げ、ヨタカと目が合ったナギが、慌てて顔を伏せる。  ヨタカが何とも言えない顔で頭を掻く。  一連の流れは、ずっと変わらない。  野良猫と同じだ。  食べ物を餌に近づくことができても、あと少しの距離が縮まらない。  ナギを島から連れ出したのはヨタカだ。  なので距離が縮まなくても、それをぼやくこともできない。  彼はそう思い、気長に待つことを決めていた。  だがナギの方は、実はまったく別の考えで、ヨタカを直視できないでいた。  ヨタカは軍人だ。  あの日、イスラ王の寝所にいたのも、似たような体格の、剣を携えた軍人だった。  ヨタカを見ていると、あの日のことが思い出され、ナギの心に波が立ち、穏やかでいられなくなってしまう。  同性同士であることに抵抗があったわけではない。島でも、そういう伴侶の形はある。  イスラ王が軍人と、そういう行為に及んでいた。  そして何より、手を伸ばせば届くほど、自分のすぐ横で――。  ナギはもちろん、他人のそういう行為を目にするのが初めてだった。  実際には、目を背けていたので見ていたわけではないが、結局、最初から最後まで全て聞いてしまった。  イスラ王の掠れた声。  獣じみた息遣い。  肌がぶつかるリズム音。  それらを思い出しただけで、頬が熱くなる。 「っ……」  視界の中に飛び込んできた大きな手を、ナギが反射的にはたき落とす。  驚いたのだ。あの夜のことを思い出していたので、つい過剰な反応をしてしまった。 「あ……」  傷ついたヨタカの表情は一瞬だけだった。すぐにいつもの、彼のそれに戻る。 「すまない……驚かせた。顔が赤い。風邪気味なのか?ずっと庭にいるから……。体が温まるものを用意してもらう」  それだけ言うと、ヨタカは去ってしまう。  謝るタイミングと、熱ではないと言いそびれ、ナギが大きく息をつく。  ナギの部屋の窓の外に、菓子屑を撒いて鳥を引き寄せたのは、他でもない彼だった。  ナギはそれを見てしまった。  だがヨタカは、ナギに見られたことを未だに知らない。  聞いたわけではないがおそらく、泣いてばかりで部屋に引き篭もっているナギを、元気づけようとしたのだと思う。  これは後で分かったことだが、彼はそういう人間だ。  最初は、ヨタカがどうしてそんなことをするのか、ナギにも分からなかった。  イスラ王の命で、自分を懐柔させて、島の秘密を聞き出すつもりでは……と疑った。  気がつくといつも、ヨタカは申し訳なさそうな表情で、ナギのことを見ている。  彼がナギを島から連れ出したことに、気まずさを感じているのだと分かる。  彼に対して、ナギは怒りなど持っていないのに。  ヨタカは自分の仕事をしただけだ。もしそうしなければ、彼が罰せられていたかもしれない。  それどころか、軍人としての荒々しい姿の合間に見せるヨタカの優しさに、ナギは感謝していたくらいだった。  彼の、ナギを遠くから見守るような、優しい眼差しは好意を持てた。 「シラ……どうしてるかな」  優しい兄の眼差しを思い出し、ナギの視界が溺れそうになる。  泣いてはダメだ。泣いても何も変わらない。  気丈さを見せ、ナギはグッと涙を堪える。 「ハーブティーを貰ってきた。中に入ろう……どうしたんだ」  潤んだその瞳を見たヨタカが、慌ててナギに駆け寄った。 「ちょっと……、風で目にゴミが入っちゃったんだ……」 「見せてみろ」 「あっ」  顎を持ち上げられ、息が触れそうなほど近くに、ヨタカの顔が降りてくる。  ナギの顔が真っ赤になったことに相手は気づくことなく、更に近くで、ナギの海色の瞳を覗き込む。 「特に何か入ってるわけじゃなさそうだ……。だが触らない方がいい」 「ちょっ」 「ちゃんと見せてみろ。傷がついたりしたら大変だ」  迫ってくるヨタカの顔が、触れてしまいそうなほど近い。  ナギは慌てた。  自分の心臓の音が、ヨタカに聞こえてしまいだった。 「ちょ、自分でするよ」 「早く水で洗った方がいい」 「っ、ちょっと行ってくる!」 「あ、おい」  走って家内へ向かったナギに、行き場を失ったヨタカの手が残される。  バスルームの扉を閉めたナギは、自身の心臓を抑えた。 「なんでこんなに……」  ドキドキするのだろう。  彼が見ていると分かると、背中で感じる視線にすら、鼓動はうるさい。  ヨタカは大体、いつも眉間に皺を寄せている。  軍人の彼は、常に様々なことを考えているのだからそれも仕方ない。  滅多に笑わない彼が、ふとした瞬間に微笑むのを見て、心臓が跳ね上がる。  ただ指が軽く触れただけで、全身が沸騰しそうになる。 「こんなこと、してる場合じゃないのに……」  家族はバラバラ。本当に皆無事なのかどうかすら、未だ分からないまま。  そんな時に、自分は一体何をやっているのか。  顔を洗い、落ち着いたナギが出ていくと、裏庭のバルコニーには思わぬ客がいた。

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