12 / 32
菓子屑とヨタカ
島で生活していた頃、ナギはどこでも行けた。
幼い頃から出歩いていたナギは、街のほとんどの場所を知っている。
知り合いばかりの街では迷子になっても、誰かがナギに気づいて、城まで送り届けてくれた。
海へ行けば、竜神が待っている。
毎日のように、竜神と一緒に島の周りを散歩した。
竜神の加護 があれば、海底へも潜ることができた。泳げないナギが海を怖がらずに済んだのは、竜神のおかげだ。
それが今、ナギは、決められた狭い範囲しか行き来することができない。
王と、王に許された数名しか入れない敷地内にある家の中が、ナギに与えられた自由だった。
ナギは時間の多くを、庭に面した、一階のバルコニーで過ごした。
バルコニーは表と裏の両方にあり、裏の方は手入れがあまりされておらず、忘れられたような庭だ。ナギは日中、大体そこにいた。
島にはない珍しい花や木々、そしてそこに集まる動物や鳥。
当初は、部屋で鬱々と、泣いては眠るを繰り返していた。
そんな心に日が差したのは、ナギの部屋の窓の外に、鳥たちが姿を見せ始めた時からだ。
「またここにいたのか」
「将軍……」
庭の草木を掻き分けて現れたのは、島でナギを助けた将軍のヨタカだった。
「ほら、食堂から貰ってきた。あげるといい」
「あ………。あ、ありがとう」
戸惑いながらもそれを受け取る。
布を開き、中身を草の上に撒く。
すぐに鳥たちが集まり、ご馳走をつつき始めた。
一生懸命に草の間をつついてまわる鳥たちに、ナギが表情を柔らげる。
鳥の様子を見守っていたナギだったが、ふと、自身を見る視線に気づいた。
顔を上げ、ヨタカと目が合ったナギが、慌てて顔を伏せる。
ヨタカが何とも言えない顔で頭を掻く。
一連の流れは、ずっと変わらない。
野良猫と同じだ。
食べ物を餌に近づくことができても、あと少しの距離が縮まらない。
ナギを島から連れ出したのはヨタカだ。
なので距離が縮まなくても、それをぼやくこともできない。
彼はそう思い、気長に待つことを決めていた。
だがナギの方は、実はまったく別の考えで、ヨタカを直視できないでいた。
ヨタカは軍人だ。
あの日、イスラ王の寝所にいたのも、似たような体格の、剣を携えた軍人だった。
ヨタカを見ていると、あの日のことが思い出され、ナギの心に波が立ち、穏やかでいられなくなってしまう。
同性同士であることに抵抗があったわけではない。島でも、そういう伴侶の形はある。
イスラ王が軍人と、そういう行為に及んでいた。
そして何より、手を伸ばせば届くほど、自分のすぐ横で――。
ナギはもちろん、他人のそういう行為を目にするのが初めてだった。
実際には、目を背けていたので見ていたわけではないが、結局、最初から最後まで全て聞いてしまった。
イスラ王の掠れた声。
獣じみた息遣い。
肌がぶつかるリズム音。
それらを思い出しただけで、頬が熱くなる。
「っ……」
視界の中に飛び込んできた大きな手を、ナギが反射的にはたき落とす。
驚いたのだ。あの夜のことを思い出していたので、つい過剰な反応をしてしまった。
「あ……」
傷ついたヨタカの表情は一瞬だけだった。すぐにいつもの、彼のそれに戻る。
「すまない……驚かせた。顔が赤い。風邪気味なのか?ずっと庭にいるから……。体が温まるものを用意してもらう」
それだけ言うと、ヨタカは去ってしまう。
謝るタイミングと、熱ではないと言いそびれ、ナギが大きく息をつく。
ナギの部屋の窓の外に、菓子屑を撒いて鳥を引き寄せたのは、他でもない彼だった。
ナギはそれを見てしまった。
だがヨタカは、ナギに見られたことを未だに知らない。
聞いたわけではないがおそらく、泣いてばかりで部屋に引き篭もっているナギを、元気づけようとしたのだと思う。
これは後で分かったことだが、彼はそういう人間だ。
最初は、ヨタカがどうしてそんなことをするのか、ナギにも分からなかった。
イスラ王の命で、自分を懐柔させて、島の秘密を聞き出すつもりでは……と疑った。
気がつくといつも、ヨタカは申し訳なさそうな表情で、ナギのことを見ている。
彼がナギを島から連れ出したことに、気まずさを感じているのだと分かる。
彼に対して、ナギは怒りなど持っていないのに。
ヨタカは自分の仕事をしただけだ。もしそうしなければ、彼が罰せられていたかもしれない。
それどころか、軍人としての荒々しい姿の合間に見せるヨタカの優しさに、ナギは感謝していたくらいだった。
彼の、ナギを遠くから見守るような、優しい眼差しは好意を持てた。
「シラ……どうしてるかな」
優しい兄の眼差しを思い出し、ナギの視界が溺れそうになる。
泣いてはダメだ。泣いても何も変わらない。
気丈さを見せ、ナギはグッと涙を堪える。
「ハーブティーを貰ってきた。中に入ろう……どうしたんだ」
潤んだその瞳を見たヨタカが、慌ててナギに駆け寄った。
「ちょっと……、風で目にゴミが入っちゃったんだ……」
「見せてみろ」
「あっ」
顎を持ち上げられ、息が触れそうなほど近くに、ヨタカの顔が降りてくる。
ナギの顔が真っ赤になったことに相手は気づくことなく、更に近くで、ナギの海色の瞳を覗き込む。
「特に何か入ってるわけじゃなさそうだ……。だが触らない方がいい」
「ちょっ」
「ちゃんと見せてみろ。傷がついたりしたら大変だ」
迫ってくるヨタカの顔が、触れてしまいそうなほど近い。
ナギは慌てた。
自分の心臓の音が、ヨタカに聞こえてしまいだった。
「ちょ、自分でするよ」
「早く水で洗った方がいい」
「っ、ちょっと行ってくる!」
「あ、おい」
走って家内へ向かったナギに、行き場を失ったヨタカの手が残される。
バスルームの扉を閉めたナギは、自身の心臓を抑えた。
「なんでこんなに……」
ドキドキするのだろう。
彼が見ていると分かると、背中で感じる視線にすら、鼓動はうるさい。
ヨタカは大体、いつも眉間に皺を寄せている。
軍人の彼は、常に様々なことを考えているのだからそれも仕方ない。
滅多に笑わない彼が、ふとした瞬間に微笑むのを見て、心臓が跳ね上がる。
ただ指が軽く触れただけで、全身が沸騰しそうになる。
「こんなこと、してる場合じゃないのに……」
家族はバラバラ。本当に皆無事なのかどうかすら、未だ分からないまま。
そんな時に、自分は一体何をやっているのか。
顔を洗い、落ち着いたナギが出ていくと、裏庭のバルコニーには思わぬ客がいた。
ともだちにシェアしよう!