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涙の理由

 ナギがキッチンへ消えると、ヨタカは声を潜めた。 「ヤツの密会相手だが、どうも怪しい」 「……島の者なのか」  ナギをキッチンに移動させた時点で、オブシディアンにはある程度の予想がついた。 「不審に思ってつけてみると、海の側の洞窟に消えていったと言っていた」 「海の側の……。一年に一度、十人の人間を差し出す祭壇のある洞窟か。なるほど……。あそこは確かに島と繋がっている。だが向こう側の扉を開ける者がおらねば、通ることはできない。しかも王家しか知らない、特別な仕掛けが施されている」 「ああ。その通りだ」 「それでも何とか仕掛けを解いて一枚目の扉を開けても、島へのもう一枚は、王家の末裔にしか開けられないと聞く」  そこで、ヨタカがナギを遠ざけた真の意図が、オブシディアンにも分かった。 「城の内部に、裏切り者がいる可能性があるということか……」  こんな話を聞けば、ナギはまた気落ちするだろう。  やっと少しずつ笑顔も見せるようになってきた。  家族と会うことができない今、あまり気を揉ませるのは気が引ける。  深刻な顔で黙るヨタカに、オブシディアンが微かな笑みを浮かべた。 「それほど心配する相手なら、どうして面と向かって名前で呼んでやらない」  それは、先ほどナギから受けたことへの、彼なりのささやかな報復だった。  真面目なヨタカは、呼んでいる……と、言葉を詰まらせた。 「緊急時だけだろう。面と向かって言えないなら、そんなもの、呼んでいるとは言わないぞ」 「……どうしてそんな話になるんだ」  ヨタカが頭を抱える。その耳は赤くなっている。  オブシディアンはほくそ笑んだ。 「お前があまりにも奥手だからだ」 「そんなことを話してる場合じゃないだろう。……大体あいつは、お前のことが気になってる。お前が呼んでやればいい。きっと喜ぶ」 「……剣以外のことは、てんでダメなヤツだな」  自分のことを棚に置いて喋るオブシディアンに我慢できなくなったヨタカが、逃げるようにキッチンへ向かう。  オブシディアンはそんな彼に、笑いを堪えるのが必死だった。  オブシディアンにとって、ヨタカはまるで弟のような存在だ。  一方の、天涯孤独のヨタカにとっても、兄のような存在のオブシディアンには、時折こうして頭が上がらない。  キッチンでナギの後ろ姿を見たヨタカは、軽く咳払いした。  普段から、うっかり驚かさないよう気をつけていた。  ただでさえ体格の大きいヨタカのような者が急に飛び出しては、小動物はみな血相を変えて逃げてしまう。 「……どうした?」  だがナギの様子がおかしことに気づく。ヨタカに気づいているだろうに、振り返ろうとしない。  近づいてみると、ナギの指が真っ赤になっていた。ナイフがその側で転がっている。 「切ったのか?………よかった。大丈夫だ。酷くない。すぐ手当てしよう」  ヨタカがテキパキと処置する最中も、ナギは俯いて顔を上げようとしない。  鎖から解放され、家に軟禁されて間もない彼を思い出す。  あの時もこんなふうに、ナギは何も喋らず、俯いた顔をけして上げようとしなかった。  困ったヨタカは、苦肉の策を思いついた。 「別に俺に話せなくてもいいんだ。……オブシディアンを呼んでこよう」  立ち上がりかけたヨタカの裾が引っ張られた。 「ナギ……」  ナギは泣きそうに顔を歪めていた。  泣くまいと必死で堪えてはいるが、その瞳は既に溺れ始めている。  次の瞬間、ナギはヨタカに抱きついた。 「……聞いてしまったのか……」  ヨタカが察する。  ヨタカはぎこちない仕草で、ナギの背と頭に手を触れた。濡れたような艶のナギのウェーブに、長い指が絡む。 「……すまない。配慮が足りなかった」 「どうしてこんなことに……」  それは、あの戴涙式(タイルイシキ)の日から、ずっとナギの心にある気持ちだった。 「……聞いてくれ、ナギ」  ヨタカはナギを優しく引き剥がすと、一緒に腰掛けた。 「俺の両親は、戦で死んだ。王都カラカルから遠く離れた、小さな村で。もしもイスラ王が村を見捨てていれば、俺もとっくに死んでいた」  ナギの目から、我慢できない涙が一粒、頬を伝う。  真珠のようなそれを、ヨタカの指が受け止める。 「俺のために悲しまなくていい。その後の暮らしも、悪くなかった。祖父が漁師で、しばらく一緒に暮らしてたんだ。だがその祖父も、海の事故で亡くしてしまった。ついに家族をみんな奪われて、その時思ったんだ。どうしてこんなことになったんだ。俺が一体何をしたんだ……ってな」  ヨタカは苦笑した。  昔の自分の感情を思い出せば、今でも心がむず痒くなった。 「信じろ。お前の気持ちは痛いほどよく分かる。でもナギ、お前のいいところは、現実を嘆いて、自分には何もできないと、泣くところじゃない」 「……っ、それは……。それはヨタカは、島での俺のこと、何も知らないから……」  頭のいい兄と姉と育ち、何をするにしても、彼らの三歩後ろから、ついていくのが精一杯だった。  難しいことは、兄と姉が引き受けてくれた。  だがそれでもみな、ナギを許し、暖かく見守ってくれた。  ずっとナギは、それが許される環境にいた。 「父上が大変な時にも、何の役にも立たなかった……。それに王になったシラにも、あのままいてもきっと役には立たなかった……。母上やナディアのことも、俺、仮にも王子なのに、守ってあげられてない」 「いいや。お前はお前の家族を守ってる。ここにいて生きていることが、それだけで、彼らを守っているということになる」  あとからあとから溢れ、頬を伝う真珠の雫に、ヨタカが苦笑いを浮かべる。  これでは、拭いても拭ききれない。 「お前はお前なりに、ここで家族を守っているんだ。それを忘れたらダメだ」 「ヨタカ……」  濡れた瞳と見つめ合ったヨタカが、ハッとした顔で体を引く。  ギクシャクした動作で顔を背けると、早口で残りを言った。 「お前のいいところは、自分のためじゃなく、誰かのために涙を流せるところだ。自分のために嘆く涙じゃなくて」  それだけ捲し立て、突如立ち上がる。  そして、先ほどまでナギが立っていたキッチンに立った。  すぐにナイフとまな板の軽快な音が聞こえ始める。  赤くなった目を、ナギがその袖で拭う。  自身の頬を軽く叩くと、立ち上がり、ヨタカの隣に並ぶ。  「……今度こそ、心が折れると思ったんだろう?」  キッチンに立つ二人を隠れて眺めるイスラ王の背後から、そんな声がした。

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