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アブラ・カ・タブラ

「残念だったな。ナギは、お前が思うほど弱くない。かつてのお前がそうだったように」 「……俺はあんなに、世間知らずな、のほほんとした、泣き虫な人間だったか?」 「似たようなものだっただろう。……互いに」 「さぁ……?俺にはいつも、辛抱強く何かを待っていた記憶しかない。……父の愛、蔑まない大人たち、裏表のない友情。そして一番欲しかった者からの、たったひとつの言葉……。全てをただ待っていた弱い俺には、そのどれひとつとして、手に入れることができなかった。ヤツもきっと同じ末路を辿る。泣いてばかりで、見ているこっちが疲れる」  オブシディアンは黙った。  王という役割の枠からはみ出たペリアの言葉は辛辣だ。  殊更ナギに対して、その棘は鋭く立つ。  王として臣下の前に立つ時には口にしない「俺」という一人称も、本人が意識して使い分けているわけではない。  オブシディアンは知っていた。  そうして「イスラ王」という役目を分離させなければ、「ペリア」というひとりの人間は、とっくの昔に破壊されていただろう。 「あの頃の俺たちには選択肢がなかった。それでも精一杯やったんだ。お互い、最善を尽くした。……いい加減、過去を許してくれ」  ——俺を許してくれ。  胸を打つ、オブシディアンの切ない声。  だがそれを聞いたイスラ王の唇が、怒りで戦慄く。  彼の中で、彼自身でもどうすることもできない怒りが、もうずっと長いこと沸々としていた。  マグマのようなそれは、時折吹き出しては、彼自身と、そしてその隣に絶えずいるオブシディアンを傷つける。 「ペリア……、俺たちは一体どこで……何を間違った?」 「…っ、暑苦しいな。背後に立つなと、いつも言っているだろうっ」 「……どうしたの」  イスラ王の大きな声に、ナギとヨタカが駆けつける。  イスラ王は逃げるようにして、別の部屋に行ってしまった。 「……癇癪を起こした子どもだと思ってくれていい。気にするな」  その姿を見送ったオブシディアンが、つらい思いを振り切るように、軽く頭を振る。 「でも……」 「それより、ひとつ思いついたことがある。聞いてくれ」  オブシディアンの案はこうだった。 「ここから遠くない海の側の洞窟で、例の男を待ち伏せし、扉が開くのを待って、密かに島への地下道へ入る」 「このまま本土にいても、追手は振り切れない。それならいっそ、島に渡るのも手だな確かに……。だが、洞窟は複雑だ。あの日別のルートで入ったが、あの道全てを覚えられるとすれば、癪に障るが、あのアルワーンぐらいだ」 「ヤツは今、島だったな。まだ帰ってこないつもりか」 「おそらくヤツにも、クーデターの情報は伝わっているはずだ。面倒ごとを回避しようと、ヤツはそのまま島に居座る可能性がある」 「確かに……」  一見いい案に見えたが、洞窟という大きな壁にぶつかってしまう。 「俺が案内できたらよかったんだけど……」  島の人間のナギも、洞窟の道を網羅しているわけではない。  落ち込むナギの頭を、ふわりと、ヨタカの手が覆う。  ナギは頷いた。  自分のダメなところばかり見て落ち込んでいても、何も変化は起こらない。  ヨタカはそれをナギに教えてくれようとしたのだ。 「——アルワーンが必要なら、ひとつ方法がある」 「イスラ王……」  大丈夫?と、思わず聞きかけたナギに、ヨタカが目配せした。  聞くなと言うことらしい。  確かにイスラ王は、ナギだけには聞かれたくはないだろう。それに例え聞いても、口が裂けても本心を言ったりしない。  ナギにも段々と、そういうことが見え始めてきた。  少し冷静になれたのは、ヨタカのおかげだ。 「何か考えが?」 「考えもなにも、ヤツを呼ぶ手段なら、本人から預かっている」 「手段……?」 「これだ」  イスラ王は胸元から、何やら怪しい小瓶を取り出した。  オブシディアンとヨタカが、途端、途轍もなく嫌そうに眉根を寄せる。 「何であるにせよ、やめておいた方がいいのでは?アルワーンのものに頼ったりすれば、ろくな目に遭わない」 「そうだ。そんな得体の知れないものを使うな。ヤツの作るものに、ろくなものなどない」  二人の拒絶が凄い。  ナギは首を捻った。 「あの、時々出てくるアルワーンって、一体どういう人なの?」 「変人だ」 「変態だ」  重なった声はどちらも、ナギにはよく理解できない言葉だ。  イスラ王がそんな二人に、呆れた表情を見せる。 「藁にもすがる思いという言葉を知っているのは、私だけなのか?こんな時に、好き嫌いで手段を選んでどうする。何度も言うが、アルワーンの錬金術の腕は大陸一だ。大体、ヤツの助けなしでは、洞窟は進めないのだろう?それとも、やはり私が城に戻り、このバカげた騒ぎをさっさと解決しようか?私は別に構わないぞ」  大きな男たちがグッと言葉に詰まるのを見たイスラ王は、何の前触れもなく、瓶をナギに放った。 「えっ、ちょっ……」  危うく落としかけたナギが、無事だった瓶にホッと息をつく。 「君に、開ける勇気があるかな?」 「待て。俺が開ける」 「ヨタカ、君はいつから彼の保護者に?この先も、危険なもの全てから遠ざけるつもりか」  その言葉は人知れず、オブシディアンの胸に刺さった。だが彼は、内心の痛みを誰にも悟らせない。  ナギがギュッと唇を結ぶ。 「できるよ。瓶を開けるくらい」 「あっ、待てナギ」  信じられないような色の二層の液体は、ナギが瓶を逆さにすると、落ちるどころか、瓶の底に上がっていった。 「なにこれ……。一体どうなって……わぁっ」 「ナギっ」  突如、瓶が粉々に砕け散る。  巻き込まれたナギを助けようとしたヨタカだったが、何かに弾き返された。 「これは……錬成陣……?」 「触るな」  目の前の見えない壁に触れようとしたイスラ王の手を、オブシディアンが掴む。  砕けたはずの瓶の欠片が、ひとりでに動き始めた。  ランダムに見えたそれは、何やら模様を描いている。  床にできたのは錬成陣だった。  しかしそれが陣であることは分かっても、この場にいる誰ひとりとして、一体何の陣であるかは分からない。  ナギは見えない壁に閉じ込められた。しかもズボンと袖を、大きな欠片が貫いている。  欠片はナギを縫い止めたまま、錬成陣を描いていた。 「ナギ!」 「平気……。服、縫い止められちゃった……」  どこも怪我はなく、ただ動けないだけだ。 「すぐ助けてやる」 「待てヨタカ。様子が変だ」  錬金陣が薄っすらと光り始める。  描かれた陣をなぞるように光り終えると、ボンッという音と共に、煙が立ち上がる。 「ナギ!」

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