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ウミガラス
アルワーンは寝台まで来ると、何の前触れもなくシラの短い鎖を引っ張った。
「っ」
シーツの上にシラの体が倒れる。
すぐに起き上がろうとするシラの上に、アルワーンがのしかかった。
力で言えば、鍛えているシラの方が強い。背丈も、そう変わらない。
だがこの状況下では、優勢なのは明らかにアルワーンだった。
「どうして服を着ているのかな?うん……?私のガラスは?……どこにやったんだ?……ウミガラス。ちょっと来い」
しかしウミガラスはすぐには来ず、ようやく現れたその足取りも、いつも通り呑気だ。
アルワーンがイライラと爪を噛む。
「私のガラスをどこへ?あれは高価な上、そうそう手に入らない代物なんだぞ」
考えるような仕草を見せたのかどうなのか、彼に至ってはどうにも分かりにくい。ウミガラスが突然、自身の喉を指差す。
シラには何のことかわからなかったが、アルワーンには通じた。
「なんだ……?喋りたいのか?」
アルワーンの一言に、シラが目を見開く。
「私の大事な実験用具をなくした言い訳は、よほどのことなんだろうな」
アルワーンの指輪が光った。
同時に、ウミガラスの首の装飾品 が光る。
「……私が、強制的に彼の声を封じていると、誤解しないでくれたまえ。声を封じることは、他でもない彼のリクエストだ」
聞いてもいないのに、アルワーンはシラに言った。
「私の侍従である限り、私を失脚させようとする連中と顔を会わせなければならない。例え独房に入れられ、尋問されても、喋れなければ答えようがない。面倒ごとを避けたいと言って、彼が自分で、自分の声を封じる錬成陣を首につけている。おかげで本国では、彼が喋れると知る者はいない」
ウミガラスが喉に手をやる。
何度か喉を動かし、調子を確かめているようだ。
「さぁ、声は戻ったぞ。早く言わないか」
「……ど……て」
「……は?何だって?」
その声は久しぶりに出すせいか、掠れていてひどく聞き取りにくい。
珍しく焦れた様子を見せ、ウミガラスがアルワーンの肩を掴む。
「どいて」
彼はそのまま、アルワーン体をシラから引き離した。
シーツに転がったアルワーンが、白目を剥く。
「そこ」
「……は?」
「そこ。ガラス」
ウミガラスが、アルワーンの脇を指さす。
シーツに埋もれて気づかなかったが、そこにはガラスが無造作に転がっていた。
拍子抜けした表情で、アルワーンが寝台から身を起こす。
アルワーンは立ち上がると、散った威厳をかき集めるかのように、皺になった服を念入りに叩く。
「そうならそうと、私をひっくり返り前に早く言えばいいものを……」
ぶつぶつと呟く主人には目もくれず、ウミガラスはシラの腕を掴んで引き起こした。
声を自ら封印していたことにも驚いたが、戻った彼の声は思った以上に低く、そして艶がある。
もしもあの最中に、こんな声が耳を掠めていたら……。
その想像はシラの心を、予想外に大きく掻き乱す。
城を占領された日から、シラにとって、想像を絶する行為を強いられてきた。
だがその最中、媚薬で薄れる意識の中でも、ウミガラスがシラの体を、本当の意味で傷つけたことは一度もない。
ねっとりした液体の入った小瓶をアルワーンに与えられ、早く挿入しろと言われても、ウミガラスはそうしなかった。
シラの体が十分にほぐれるまで辛抱強くそこを弄り、シラの体が蕩けた時、ようやく彼自身のものを入れた。
それは人の倍以上の大きさで、どちらにせよシラを泣かすことになったが。
「どうして王子が服を?しかも勝手にこれを取るなんて」
高価なガラスの中身は空っぽだ。
覗き込んだアルワーンがウミガラスを責める。
ウミガラスと言えば、何を反論するでもなく、ただ怠そうな顔でシラを見ている。
アルワーンは諦めの息を吐いた。
「一体何を考えているか知らないが、ちゃんと自分の仕事をしてもらわないと困るぞ。……それともなにか。体を重ねて、情でも湧いたのか。第一王子に」
言いながら鼻で笑ったアルワーンは、ウミガラスがまだシラを見つめたままなことに気づき、眉根を寄せた。
ウミガラスの、あるのかないのか分からないほどの好奇心。
その全てが今、シラに向けられている。
解せないアルワーンが頭を振る。
ウミガラスは元々奴隷だった。その彼を買った時からすでに、こういう、何とも意味の分からないヤツだった。
そういうところが気に入っているのだが、正直、最近のウミガラスには少々困っていた。
困っていると言えば、シラも困っていた。
最近、ウミガラスが、穴が空きそうなほどシラを見つめてくることに。
その視線は一見、穏やかな日の海のよう。
だがその海の中では、大きなクジラが泳いでいる。いつ海面を割って、それが飛び出すとも限らない。見つめられる視線の中に、シラはそんな緊張感を感じた。
「何をするにしても、まずは食事が先だ。ああ……腹が減った……。どうしてこんなに腹が減っている?そう言えば、朝は何を食べたかな?……ウミガラス。覚えてるか?」
「知らない」
「おや?じゃあ食べていないのかもしれない。そう言えば、昨日の夜も食べた記憶がない。ああああっ……腹が減ったっ。来るまで待てない。私はキッチンへ行って来る。ここへも後で何か届けさせよう」
小走りで、アルワーンが部屋から出て行く。
ウミガラスはまた、バスルームへ消えた。
しばらくして水音がした。シャワーを浴びているのかもしれない。
シラは窓の近くに立った。
窓は開けられない。アルワーンの仕掛けがある。
外は少し風があるようだ。海も、海面が白く揺れている。
もう随分と外の空気に触れていない。
鍛錬もしていない。きっと剣の腕も、鈍ってしまった。
ボーッとしていたシラは、背後のウミガラスに気づくのが遅れた。
「なに……っ」
触れ合うほどすぐ後ろにいた彼は、持っていたバスタオルをシラに差し出す。
「……なんでそんなにびしょ濡れなんだ……」
ウミガラスの髪も体も、びしょびしょだった。
その体を滴る水滴が床に落ち、小さな水たまりができている。
「バスタブ、お湯入れた。使って」
差し出すタオルはシラのためらしい。
思わずといった感じで、シラが小さく吹き出す。
シラは思い出した。
昔、庭師が飼っていた大きな犬がいた。
犬は水遊びが大好きで、雨が降ると水たまりへ行き、元の毛色が分からなくなるほど汚れて帰ってきた。
ウミガラスの姿が、その犬とそっくりだった。
ハッと我に返ったシラが、慌てて顔を引き締める。
ウミガラスの手のタオルを引きちぎるように奪い、シラはバスルームへ消えた。
体をいくら拭いても、やはり風呂に入る爽快感には勝てない。
バスタブにはご丁寧に、入浴剤まで入っていた。
それは明らかに女性のためのものだったが、シラは一瞥しただけで、不満には思わなかった。
体をしっかり洗い、きちんとタオルで拭いてバスルームを出たシラが見たのは、まだ上半身裸で、水を滴らせたウミガラスの姿だった。
下半身にバスタオルを巻いたまま、さっきまでシラが座っていた窓辺で、ぼんやりと外を見ている。
さすがに呆れたシラは、バスルームから新しいタオルを取ると、ウミガラスの濡れた髪に被せた。
「ちゃんと拭け。でないと……」
シラはそこで言うのをやめた。
……でないとなんだ。
風邪をひくとでも言うのか。
ひけば好都合じゃないか。
アルワーンはひ弱だ。錬金術さえ使わせなければ勝てる。この大きな男さえどうにかできれば、逃げるチャンスも掴める。
短い葛藤の間も、ウミガラスの髪からはまだ水が滴っている。
彼は被せられたタオルを片手で動かし、適当に撫でている。全然拭けていない。
「ああもうっ。貸せ」
つまるところ、シラは長男なのだ。
「まったく……ナギより世話のやけるヤツだな……」
結局、シラはウミガラスの髪を拭いた。
彼の緩く癖のある髪は、思ったより柔らかい。
日に焼けた肌に、金色混じりの髪。
本土では珍しい色の髪だ。
幼い頃から、年の離れた弟のナギの面倒を見てきたシラにとって、それはごくごく慣れたことだった。
あっという間に髪を吹き終わり、タオルを取ろうとする。
その手首を掴まれたシラの全身が強張る。
いくら強がってみたところで、染みついた蹂躙の恐怖はそう簡単に抜けはしない。
乱れた髪の合間から、ウミガラスの薄茶色の瞳がジッとシラを見ていた。
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