26 / 32

マフィンとフォーク

「もっと」 「……は?」 「もっとやって」 「自分で拭けよ」 「もっと」  掴まれた手首は痛くはないが、びくりともしない。ウミガラスはその見た目同様、馬鹿力の持ち主だ。  城を占領した時、剣を抜いたシラを、その力のみで捩じ伏せたほどに。  選択肢がなく、シラは内心沸々とする怒りを押し込留めながら、ウミガラスの髪を拭いた。 「……もういいだろ。乾いた。離せ」 「ダメ。もっと」  結局、シラは小一時間近く、彼の髪を拭いた。  髪はもちろん、拭いたタオルの方もすっかり乾きかけていた。  そんな中、部屋の隅のベルがなった。  アルワーンが置いたもので、城内部へ繋がる二つある扉の一番外に、食事や洗濯物が届くと鳴る。  ウミガラスが行き、ワゴンに乗った食事を部屋へ入れた。  食事は大体、ウミガラスと二人きりだ。  アルワーンは大抵、食事の時間の前に腹が減って死にそうになり、今日みたいに食堂へ向かう。  いつも通りの味気ない食事。  ただ、今日はいつもと少し違っている。  それはウミガラスが喋れると、分かっていることだ。  彼が喋れないのではなく、喋らないのだと憤慨していたシラにとって、それは大きな違いだった。 「……なぜ自分で自分の声を封じたりしたんだ」  口元をナプキンで吹くシラが、あまり食べないまま食事を終える。  このところ食欲が乏しい。  朝から晩まで、ひたすら寝台の上にいることが多いせいだ。 「俺じゃない。アルワーンの錬金術」  どうやら、ウミガラス自身の力で封じたわけではなく、アルワーンの錬金術で封じたのだと言いたいらしい。  聞きたいのはそういうことじゃない。  だが何か言って、それに対して返事があるということが、驚くほどシラをホッとさせた。  モソモソと食べていたウミガラスが、早々に食事を終えたシラを見て手を止める。  そして彼はスイーツ皿の蓋を取り、マフィンを二つ小皿に取り分けた。  のっそりとした動作で、シラの前に置く。  その口には、フォークが入ったままだ。 「行儀が悪いぞ」  つい言ってしまった。  すぐに後悔したシラが咳払いで誤魔化す。 「俺はもう食べない」 「でも、シラ、これ好き」 「……なんで俺がマフィンを好きだって思うんだ」 「前食べた」 「食べてない。一体いつ俺が食べたって言う……」  言っている途中で思い出したシラの言葉が、尻窄みになる。  また咳払いで護摩化そうとしたシラだったが、ウミガラスは片手にフォークを持ったまま、シラの横から動こうとしない。  まるでシラが食べるまで、そこで待つと言っているかのように。 「た、食べたかもしれないが、今日は食べない。食欲がないんだ」  ウミガラスは無言で、先ほどまで彼の口に入っていたフォークをマフィンに突き刺した。 「おいしい」  全く感情が籠っていないので、聞いているのか勧めているのかすら不明だ。 「おいしい」  二度目のフォークは、シラの唇にマフィンをくっつける。  何なんだコイツは一体……。  もしもシラが体調もよく、元気であったなら、そのフォークを奪い取って、相手の喉に突きつけるくらい、やってのけた。  怒りにこめかみを引き攣らせながらも、シラがその口を小さく開ける。  マフィンが口内に届く。  噛んでいるうちに、怒っていたこともうっかり忘れそうなほど、それは美味しかった。  甘すぎない、野菜の優しい甘みが広がる。 「これはまさか……」  シラが瞠目する。  味には覚えがあった。  母親が時々焼いてくれた、手製のパウンドケーキと同じ味だ。  母親とナディアは拘束されておらず、兵つきだが、城外へも散歩できると聞いていた。 「母上……」  シラの目に薄っすらと、涙が光った。  ずっと張り詰めていたシラの心が、ほぐれた瞬間だった。 「おいしい。よかった」  ウミガラスが抑揚のない台詞と共に、シラを抱き寄せる。  シラは抵抗しなかった。  涙を見られないことが、かえって救いだった。 「……いつまでひっついてるんだ。……離せ」  相手の片腕が動いているのを不思議に思ったシラは、その先を追って自身の目を疑った。 「なに食ってるんだ……」  片手でシラを抱き寄せ、もう片方で、ウミガラスはシラの食べかけのマフィンを、フォークでさして口に運んでいた。  シラが呆気に取られている合間も、さしてはモグモグと食べ続ける。 「おいしい」  全く抑揚のない声が降ってくる。  シラはもう、何も言わなかった。  言えなかった。  なぜなら、腹を抱えて笑ってしまったからだ。  それはシラの、本当に久しぶりの笑顔だった。  ウミガラスの口から、入るはずだったマフィンに欠片がこぼれ落ちる。  彼はジッと、シラの笑顔を見つめる。  ここ最近の暗い出来事などまるでなかったような雰囲気をぶち破ったのが、戻ってきたアルワーンだった。 「いやぁ……腹も満たされた。……おや?どうしたんだ二人とも。何やら楽しそうだね。シラ王子、血色が良くなったんじゃないか?何を食べさせたんだウミガラス」  だがウミガラスが何か言うより早く、マフィンを見つけたアルワーンがそれにかぶりつく。 「……うん。いけるね。これはなかなかいい。だが喉が乾く。……ウミガラス。棚から、私のワインを持ってきてくれ」  ウミガラスが取ってくると、アルワーンは二つのグラス入れ、ひとつをシラに差し出した。 「王子もどうだ?鬱憤ばらしに」  その鬱憤は、他でもないキサマのせいだろう。  喉まで出かかった恨みの文句を飲み込む。  勢いでグラスを掴むと、シラはワインを飲んだ。 「ああ、いいね。さすがは第一王子。酒を嗜むのも王子の仕事のうちとは」  それは違う。  シラは酒が飲めない。ナギと同じで、たった一杯で意識が危うい。  シラはただ、意識を飛ばしてしまいたかったのだ。 「うん……?おい、ウミガラス。このワイン、どの棚から持ってきたんだ?」  アルワーンはワインの中に、覚えのある味が隠れていることに気づいた。 「棚」 「だからどの棚だ」 「銀色の」 「……っ、」  アルワーンが頭を抱えたのと、シラが倒れかけたのは同時だった。  ウミガラスに抱えられ、シラが信じられない様子で自身の足を見ている。 「っ……なにが……?」  だがすぐに、覚えのある感覚が体の中心に広がる。 「まさ……か……ワインの中に……?」  既にシラの中心は反応している。  アルワーンに与えられる媚薬と同じ感覚が、シラの体に広がっていた。 「いやぁ……。これについては、わざとじゃないんだよ、王子。新作の媚薬入りワインを、棚を間違えたウミガラスが持ってきてしまった」  嘘だ。  シラには分かった。  今日それを与えるつもりがなかったのだとしても、少なくとも、近いうちにそれをシラに使うつもりだったはずだ。 「この……っ」  足から力が抜け、腰から先がガクガクと震える。  快感が強いせいだ。立っていられない。 「王子を丁重に寝室へ運びたまえ。……今度の効き目はどうかな?」  シラを抱きあげたウミガラスの後から、鼻歌混じりのアルワーンが続く。

ともだちにシェアしよう!