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イスラ王とその従者
オブシディアンはついいつもの癖で、そこにイスラ王……、ペリアの姿を探して追いかける。
見た目も重たそうな木箱を抱え、必死で悟られまいと振る舞っているが、眉間の微かな皺と、震える二の腕で、オブシディアンには分かった。
我慢して意地を張るのが、ペリアの悪い癖だ。
彼は子どもの頃からそうだった。
スラム街で朝から晩まで遊び回り、いざ“彼の家”へ送っていこうとすると、必ずと言っていいほど、どこか怪我をしている。
「どうして早く言わないんだ」
血はすでに渇き、彼の細い足に赤い川のような筋が何本もできている。
「だって痛くない。平気だ。このくらい」
水を汲んで拭いてやると、ペリアは盛大に顔を顰めた。
傷は深く、ガラスの欠片まで刺さっていた。
「ちょっと、ここに座ってよく見せろ。膿んだら大ごとだ」
「平気だってば。唾つけとけば治る」
「俺が王子に怪我させた罪で、死刑になってもいいのか」
それはペリアが意固地になった時、いつものようにオブシディアンが言う台詞だ。
そしてそれは、必ずと言っていいほど効果があった。
ペリアは大人しく、オブシディアンにされるままになっていた。
「痛かっただろ」
「痛くない。全然」
「嘘つくな。友だちに嘘つくのは、盗人と同じだぞ」
「……ちょっとだけ」
刺さったガラスを抜くと、ペリアがギュッと目を瞑る。
だが彼はけして声を出さない。
呻き声さえひとつ漏らすまいと、きつく唇を結ぶ。
「取れた……。次からは、俺には言うんだぞ。他のヤツらには、気づかれないように手当てするから」
周囲の穢れた大人たちに戸惑い、揉まれながらも、純粋無垢で生きたあの頃。
『――言ってくれ。もしお前が言ってくれるなら、俺は――』
何かが落ちる音にハッと我に返ったオブシディアンは、それを見るなり、イスラ王に駆け寄った。
「……俺が代わろう。お前はこっちを、」
「いい。運べる。余計なことをするな」
だが言った側から、イスラ王の体が傾く。
重い木箱が、滑らかな肌を持つその両腕から滑り落ちそうになる。
オブシディアンは荷物を片手で持ち上げ、片腕でイスラ王を支えた。
「おう。デアン。ちょうどいいところに。重い荷があるんだ。それが終わったら手を貸してくれや」
通りがかりの漁師の男が、オブシディアンに声をかける。デアンとは、ディアンの発音が馴染みない村人の間でついた、オブシディアンの呼び名だ。
「ああ。分かった。……ちょっと行ってくる」
オブシディアンが荷物を肩に担いで行く。
その姿が十分に遠くなってから、イスラ王は顔を上げ、オブシディアンの後ろ姿を見つめた。
体格の差が変わらないまま、大人になった。
子どもの頃、イスラ王はひ弱だった。
それがスラムで毎日のように彼と遊び回っているうちに、軟弱で細かった手足も程よく筋力つき、見てくれはよくなった。
だが王になり、スラムを走り回るどころが、自由に城を出ることさえままならなくなった。
そしてこのクーデターだ。
今度は自由のなかった城を追い出され、島の漁村にコソコソ身を隠す。
状況こそ変われど、自分がいたい場所にいられない不自由さは、何ら変わらない。
「いつまでそうやって……」
彼は、“ペリア”を守るつもりなのだろうか。
オブシディアンの姿が完全に見えなくなると、イスラ王は小さく呟いた。
危険から、目を覆いたくなるようなことから、耳を塞ぎたくなるようなことから、あの男は必死で守ろうとする。
純情だったペリア。
彼の好きだったペリア。
彼が未だ忘れられないペリア。
もうそんな人物は、存在すらしないのに。
オブシディアンは未だに、ペリアという幻影を追っている。
洞窟へ入る数日前、ナギが海藻から痛み止めを作った。
口でこそ言わなかったが、イスラ王もナギのことを、少しだけ見直していた。
だがあまりにオブシディアンが彼を褒めるため、つい刺々しい口調になってしまった。それは認める。
「そんなに気に入ったなら、今度ヤツを寝所に呼べばいい」
オブシディアンは笑顔を引っ込め、顔を引き攣らせた。
「……どういう意味だ」
「意味……?意味とはなんだ?言葉通りだ。そんなにヤツがお気に入りなら、ことが落ち着いた後で、私がお前の寝所にヤツを呼んでやる」
島の王の末の王子、ナギ・シーティアローズ。
両親兄姉と育ち、島のことも本土のことも、そして自身のことすら何も知らない。
その見た目同様、中身は純粋無垢 。
幻の宝石と同じ色の、海の涙の花 の瞳を覗き込んだ者は誰しも、その海の広さと静けさに、思わず心を許す。
「相も変わらず、清純そうなのが好みだとはな……。それとも、処女だから好きなのか」
「それ以上、汚れたことを言うのはやめろ」
一瞬、イスラ王は目を丸くし、そして吹き出した。
「悪かったな。お前好みの、清廉潔白じゃなくて」
「お前は汚れてなんかいない。だから言うのをやめろと言ってるんだ」
「汚れてない……?はは。オブシディアン……」
突然笑い出したかと思えば、だがイスラ王のその瞳は、まるで笑っていなかった。
「気は確かか。オブシディアン。知らないとは言わせないぞ。私が父の寝所に呼ばれた日を。そして城に来た踊り子を、私が寝所に呼んだ日を」
オブシディアンの目が、大きく見開かれる。
そのどちらの日も、彼はイスラ王の近くにいた。
王であった父の寝所に呼ばれた日、彼はペリアを、その部屋まで送り届けた。
踊り子を呼んだ日、彼の目の前でペリアは踊り子を誘った。
「ずっと言おうと思っていた。いい機会だから言わせてもらう。“お前のペリア”の幻を追うのは、いい加減やめろ。お前の好きな、穢れを知らない、無垢で純情だったヤツは、もうこの世には存在しない」
「ペリア……」
伸ばされた手を、イスラ王が振り払う。
「抱きたければあの、海の涙の花 の瞳を持つ、純粋でまだ世の中を何も知らないアイツを抱けばいい。それが、“お前のペリア”だ」
「どうして……」
オブシディアンは愕然と、イスラ王を見た。
それもそのはず。
オブシディアンは目の前にあった、とんでもない事実を知らないまま、今まで見過ごしてきたのだ。
「ずっと……何かあったとは思っていた……。あの時、王の部屋から出てきた次の日、お前はしばらく自分の部屋にこもって出てこなかった……。どうして……、どうして俺に言ってくれなかった……」
オブシディアンの瞳に宿る憐憫の雫に気づいたイスラ王は、激昂した。
「やめろ。そんな目で俺を見るな。お前にだけは……お前にだけは、俺を憐れむ権利はない。……ここから出ていけ。今すぐ」
「っ、ペリア。頼むから話してくれ俺に。一体あの日、お前に何があったのか」
「この天幕には戻ってくるな」
全てを遮断する口調で言い、イスラ王はオブシディアンに背を向ける。
心を閉ざした者の背中に、衝撃を受けていたオブシディアンが、それ以上何と声をかけられただろう。
オブシディアンの出て行く気配を感じ、イスラ王はふと、自身の頬が濡れていることを知る。
指で触れ、そしてその感触に嗤う。
父親であった前イスラ王に無理矢理組み敷かれても、ペリアは涙を流さなかった。
どんなに痛く、つらくても、声を上げなかった。
そしてそのことを、ずっと、誰にも言わなかった。
それがどうだ。
なぜ今になって、とうに捨て去った過去の記憶が、鞭を振るう?
それもこれも全部、あの、ナギ・シーティアローズのせいだ。
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