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高校1年 春 その2

 特進クラスにいれば寛太朗(かんたろう)でさえ学校の授業についていくのは大変で、毎日の授業の復習は欠かせない。それでも進学塾に通っている生徒はもっと先の勉強をしているはずで、普通に授業を受けているだけでは到底、太刀打ちできない。  寛太朗は週に何度か、高校受験の前あたりから保護施設に行ってはボランティアの大学生に勉強を教えてもらっていた。  寛太朗が入所していた頃はなかったが、2年ほど前から県内の大学生がボランティアで施設に来るようになり、子供達の遊び相手をしたり話し相手をしたりしている。  本来なら、今は部外者の寛太朗に勉強を教えるのはボランティアの仕事に含まれてはいないのだが事情を知っている大学生たちが空いた時間に快く教えてくれていた。    寛太朗は5月になってから施設に新しい入居者が1人で入居しているのに気が付いた。  青白い顔色をしていて茶色く染めた長い髪をおろしている、20代前半くらいの若くて線の細い女性だ。  施設に入居したら母親と子供の身の安全を守るためにも、しばらくはそれ以前の付き合いのある人との接触は制限される。それでなくても入所したては皆、一様にピリピリと神経を張りつめている人が多い。  そんな中その女性はどことなく緩い、全てが他人事のようなぼんやりとした空気を纏っていて、その雰囲気のせいか施設でもなんとなく浮いていた。    6月の始めの学校帰り、図書館に行く途中に寛太朗は偶然、その入所者の女を見かけた。  特に外出を禁じられているわけではないから自由に外に出られるのだが普通はあまり出たがらない人のほうが多い。  だがその女は気にするふうもなくいつも一人で出歩いていて、その日もフワフワと通りを歩いていた。やがてその先に知り合いを見つけたのか、小さく手を振り小走りに走り出すと、横断歩道の手前で立っているスーツにネクタイ、派手なシャツの男に抱き着いた。  見ているこちらが恥ずかしくなるほどの濃厚なスキンシップに道行く人たちも眉を顰め避けて通る。  どう見ても会社員には見えないがホストにしては威圧感がある。     ヤクザか?    この信号を渡り2人の横を通り過ぎなければ図書館に行くことができない。     面倒臭いな    そう一瞬思ったが、どうせ向こうはこっちのことなど知りもしないだろうと知らぬ顔で通り過ぎようとした。信号を渡って、まだ抱きついている女にチラリと一瞥をくれる。  一瞬、目が合った気がしてドキリとしたが、フイと目を逸らして早足で立ち去った。  次の日、施設でその女とすれ違った瞬間 「こんにちは、寛太朗君」 と声をかけられた。 「こんにちは」  寛太朗も何食わぬ顔をして頭を下げたが、名前まで知られていたことに衝撃を受け冷汗がドッと出る。しばらく女は寛太朗たちのそばにいたがいつの間にかまた出かけてしまったのか勉強を終える頃には姿を消していた。  だが施設を出て家に向かっていると女が寛太朗の後ろをついてくるのに気が付いた。     何・・?    早足で歩くと女も早足になってついてくる。寛太朗は角を曲がって低い生け垣を飛び越えしゃがんで身を隠した。走って来る足音がして角を曲がると、あ、と小さい声がして立ち止る音が聞こえる。 「俺に何か用ですか」  寛太朗は隠れていた生け垣から立ち上がって話しかけたが無言で見つめ返してくるだけだ。    仕方なく生け垣を飛び越え女と向かい合った。 「昨日、見たよね?」  そう女が上目遣いで尋ねてきて、どう答えるべきか迷う。 「お母さんに内緒にしておいてくれない?」  甘ったるい声に、寛太朗の腹の底からジワジワと黒い感情が沸いてきた。自分は好き勝手しておいて人には内緒にしてくれ、とは随分な話だ。 「あれ、旦那さんですか?」 「まさか。私、独身だよ?」  笑いながら女は答えた。 「じゃあ、彼氏?」  うーん、と首を傾げる。 「ホスト?」  首を横に振る。 「じゃあ、ヤクザ?」  女の喉がヒクリと動いた。 「ね、どこかで晩御飯でも一緒に食べない?奢る」  女が媚びるような目を向けた。 「いえ、いいです」  短くそう答えると女に背を向ける。 「ねぇ、待って」  女が走ってきて寛太朗の前を塞いだ。 「お願い、誰にも言わないで」 「そういうの、困るんで」  寛太朗が冷たい目で見ると、女は顔を歪めた。 「お願いっ」  抱き着いてくる体を受け止め、女の肩のあまりの薄さに驚く。腕の骨など簡単に折れてしまいそうだ。 「ごめんなさい」  寛太朗はそんな女の態度にイライラした。甘ったるい声や媚びるような目、そしてなによりこの思わせぶりな態度が。 「あのさ、チクられたくなかったらあんなところで男と会うのやめたら?ちょっと舐めすぎじゃない?」  寛太朗の言葉に女の目が見開かれる。 「しかも道で抱き合うとか。みんな見てましたよ?」  冷ややかに言った。   女が寛太朗のシャツをギュッと握りしめる。 「なに?あんた何様?」 「別に、何様でもありませんけど」     何なんだよ、こいつ    見せびらかすように(たち)の悪そうな男と抱き合っていたかと思えば今度はそれを内緒にしてくれ、と言ってくる。高校生相手に媚びるようなこの女が寛太朗は気味が悪くなってきて手首を握るとシャツから引き離そうとした。だが意外にも強く抵抗してきて揉み合う。 「ちょっとっ、離せっ」  女が寛太朗のシャツを引き寄せ無理矢理、唇を押し付けてきた。 「・・んっ」  生温かい唇の感触にビクリとして突き飛ばすと、女の目から涙が零れ落ちた。  怒りなのか、悦びなのか、嫉妬なのかよくわからない感情が寛太朗の全身に渦巻く。ごちゃ混ぜの感情は暴力的な程高まり爆発した。  寛太朗は女を力一杯、壁に押し付け歯と歯がぶつかるのも構わず乱暴にキスをする。 「んっ」  女の口の中に舌を強引に差し込んだ。女がそれに応えて舌を強く吸う。ゴクリと寛太朗は唾液を飲み込んで顔を離した。  ハァハァと自分の荒い息が聞こえ、女の縋るような顔を間近に見て急に全てがおぞましくなり 「キモッ」 と女を突き飛ばして踵を返すと全速力で走った。  走りながら唇を拭う。     キモッ、キモッ    家に帰ってゴシゴシと唇を何度も洗った。     何なんだよ、あいつ   俺にどうしろっていうんだよ    思考が混乱する。     これ以上関わったらヤバい    そう頭では分かっていても施設に行けば女の姿を探してしまう。モヤモヤとした感情がなんとも気持ちが悪かったが、寛太朗は必死で女の視線も自分の感情も無視し続けた。  そうして数日たった頃、図書館の帰り道に女が横断歩道で立っていた。  ギクリと足を止める。 「今晩は」  「今晩は。・・待ち合わせですか?」 「寛太朗君に言われて会うのやめたの」  信号が青になり、寛太朗は歩き出した。  女が後ろをついてくる。 「俺のせいにしないでもらえます?」 「寛太朗君のせいじゃないよ、寛太朗君のおかげ」  寛太朗は女がついてくるのを確信しながら早足でアパートに向かうと、急いで鍵を開けて女を家に入れた。 「お母さんは?」 「今日は夜勤。朝まで帰んない」  冷蔵庫から冷えたお茶を出して飲むと女にもガラスのコップに入れて渡した。 「ありがと」  微かに手が震えているのが自分でも情けない。 「寛太朗君の部屋、どこ?」  寛太朗はドアを開けて自分の部屋に入ると扇風機のスイッチを入れた。  ブウーンと中古の扇風機の音がうるさく響く。  寛太朗は汗だくなのに女は汗ひとつかかずにベッドに腰かけてお茶を飲み、コトリ、とコップを机に置いた。 「寛太朗君、したことあるの?」  首を横に振った。  女が手を伸ばしてくる手にフラフラと近づいて握り、隣に座る。女の顔が近づいてきて唇を塞がれ、気が付けば女をベッドに押し倒していた。無我夢中でズボンを脱いでボクサーパンツをおろした。  寛太朗のモノが勃ちあがっている。 「待って、ゴム」  女がやたら小さいバッグからコンドームを出して手慣れた様子で嵌めた。 「すごく固くなってる」  そのまま女の誘導で挿入すると勢いにまかせて腰を打ち付ける。  何の問題もないはずが快感というにはほど遠く、それどころかグジュグジュとして気持ちが悪い。額から滝のように汗が流れて、顎の先から垂れているのに体がどんどん冷えていく。  女の顔が歪んでいつの間にか、寛太朗のモノは萎えていた。 「う・・」  寛太朗は女から離れてベッドの端に腰かけ自分のモノを眺めた。ドロドロの下半身が気持ち悪い。女も起き上がって隣に腰かけた。 「最初だもん、仕方ないよ」  女に慰められ 「キモ」 と思わず口から出てしまう。  女の顔が引きつった。 「それ、こっちの台詞。あんたみたいな子供、ほんと気持ち悪い。あんたの真っ黒な目、何にも見てない穴みたい」  表情の無くなった顔で女は下着を履くと部屋を出て行った。  その背中を寛太朗は見送りもせず、ゴムを引きはがすとノロノロとシャワーを浴びに浴室に入った。 「気持ちわり」  ゴシゴシと股間を石鹸で洗う。  洗っているうちに萎えていたモノが勃ち上がってきた。寛太朗はそのまま自分で擦って熱い湯の中でビクビクと白い液を流した。     二度と関りたくない  そう願った寛太朗の思いが通じたかのように、それ以降女の姿を見ることはなかった。  ホッとしながらも、もしかして自分のせいなのでは、と不安に駆られついにボランティアの大学生に 「最近、あの若い人見かけませんね」 と尋ねた。 「ああ、あの人、ちょっと前に退所したんだ」  大学生の話によると、女にはまだ1歳にならない子供がいた。低体重の未熟児でずっと入院していたらしい。しばらく入院して、本当ならば一緒にこの施設に入所する予定だったが、女はいつまでたっても子供を引き取りに行かなかった。それどころか、悪い男と付き合い始めて皆、心配していたのだ、という。  下手に周りがが介入するとこじれて最悪な結果になるかもしれない、とうことでしばらく様子をみていたのだそうだ。  絶縁状態だった女の両親が迎えに来てようやく子供を病院から引き取り、一緒に田舎に帰って行ったらしい。 「それは良かった・・ですね」 「ね、ほんと。うまく収まって良かった。最悪のケース、ってこともあるからね」 「最悪のケースですか」 「うん、赤ちゃん病院に置き去りにして、母親はヤクザと逃げちゃう、とか?」     やっぱりヤクザだったのか 「まぁ、現実逃避したくなる気持ちもわからないでもないけどね」 「現実逃避・・ですか」 「うん・・、まあ、若いし。あの人まだ22歳だったんだよ。22って僕と2つしか違わないからね。そりゃあ怖いわ。実際、赤ちゃんの父親は逃げちゃったわけだし」 「・・だったら最初から産まなきゃいいのに」  寛太朗は思わずそう言った。     勝手過ぎるだろ   産むだけ産んで、自分は怖くなったから逃げるなんて 「んー、寛太朗君、彼女いる?」 「いや、いません」 「そっか。もしさ、彼女ができて妊娠させちゃったら、どうする?」 「妊娠なんかさせない」 「うん、まぁ、そうなんだけど。もし、できちゃったら」 「絶対、妊娠なんかさせない」  寛太朗の(かたく)な答えに大学生は、ははは、と笑った。 「そうだよね。理性で考えるとそうなんだけどさ。でも、まぁ、頭ではわかってても心はなかなかそうはいかないってこと、あると思うよ」 「そんなの、妊娠させた方も悪い。頭、悪すぎる」 「うん、そうなんだよね。妊娠させた方だって同じくらい悪い。しかも逃げちゃうなんてさ、もっと悪い。だけどさ、女の人のほうが圧倒的に責められるでしょ。追い詰められて、責任取らされて、人生、狂っちゃうよね。たった22歳でそんなの一人で全部は抱えきれないよ。男の方はもしかしたら、今頃、新しい彼女と楽しくやってるのかもしれないし。そう考えたらやりきれないよ」  それで縋ったのがヤクザと高校生だったなんて、ほんと救われない。     あの人は俺にどうして欲しかったんだろうまさか一緒に逃げようって俺が言うとでも   思ってたのか? 「なんでそんなバカなんですかね、大人なのに」  寛太朗は呟いた。 「ええ?容赦ないなぁ、寛太朗君。なかなか自分が思ってるほど大人になんてなれないんだって。ダメだってわかっていてもすぐそばにあるものに縋っちゃうからさー、人って」  大学生がボールペンをクルクルと回すのを寛太朗は納得いかない気持ちで見つめた。

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