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第2話

「はあ……はあっ俺の方が!足早えーっつーの!」  走り出して五分ほどで、朝くんの後ろ姿が見えた。俺の声は聞こえているんだろうが、彼は振り返ることなく海辺を目指している。そして砂浜へ踏み入れた時、躓いて盛大に転んだところでようやく追いついた。 「……朝…くん……っ!」 「…俺には……っ俺、俺には…っ光輝しか、いなかった…! 光輝だけが、いれば、よかったのに…っ」  うずくまる彼の背中は震えていて、頬から流れていく水は、汗ではないとすぐに気が付いた。 「でも、でも俺、俺はもう…っ」 「……おいで」  震える朝くんを引き上げ、背中を抱きしめる。顔は見えなかったけれど、きっと目を見開いて驚いているんだろうな。 「…朝くん、朝くんの話を聞かせてよ。死ぬ前に、お願い」  彼の心臓の鼓動が、少しずつ落ち着いていくのが分かる。そしてふっと顔を上げ、遠くの海を見上げた。 「……光輝は俺の、全部だったんだよ」 ―さざ波の音が静かに響く。その中から聞こえてくる朝くんの小さな声を聞き逃さないよう、耳をそばだてた。 「…俺は、おばあちゃんに育てられたんだ。父親には会ったことがない。母親と初めて会ったのは、俺が七歳の頃…おばあちゃんが死んだ時だった。小さいときは分からなかったけど、おばあちゃんの遺産を相続する代わりに、俺を育てるように遺書が残ってたんだって。それで母さんは、俺を迎えに来たの」 「お母さんは、今まで何をしてたの?」 「…母さんが俺を産んだのは十六の時だった。俺を産んで、そのまま家を出てからはおばあちゃんも詳しいことは知らなかったみたい。俺も母さんが何の仕事をしてるか理解したのは、引き取られてから結構経ってからだった」 「その状態で、朝くんはちゃんと生活出来てたの?」 「……おばあちゃんが、俺にノートを残してくれてたんだ。一日の生活ルーティンみたいなやつ。病気になって死ぬのが分かってたからさ。朝起きたら顔洗って歯磨いてご飯食べて、支度して学校に行って、帰ってきたら宿題してご飯食べて、歯磨きして風呂入って寝て、みたいな。俺はその通りに生活してただけ。ご飯は、朝起きたらお金が置いてあったからコンビニで買ってたよ。遺産のこととか、母さんとおばあちゃんの間で何があったかは、おばあちゃんが残した手紙で知った。高校に上がる時に渡されたの」  淡々と語られる、彼の幼少期。たったの七歳で育ての祖母を亡くし、顔も見たことのなかった若い母親と二人暮らし。しかもその母親はきっと、朝くんを育てるつもりはなくて、実際何もしていないに等しかったんだろう。たった七つの男の子が、毎日一人で食事を頬張る姿を想像して、胸が痛んだ。 「俺の人生が変わったのは、九歳の時。近所に引っ越して来た光輝と出会ってからだった。ちょうど、今のうさくんと同じ年だね」  そう言ったきり、無言で海を見つめる。何から話せばいいんだろう、何を話せばいいんだろ。そんな困惑と悲しみが流れ込んでくるようだった。 「……光輝はね、俺にとっての…人生の全部だった……本当に、全部だったんだよ」   ―窓の外で、蝉が鳴いている。うだるように暑い、八月のことだった。俺はいつものように誰もいない家の中で、じっと窓の外の景色を見つめていた。あまりの暑さに耐えかね、窓を開ける。すると、窓の先に映り込んだ一人の少年。たぶん、同じくらいの年だと思う。その少年と、パチリと視線が合った。 「なあ、お前その家の子かー?」 「……え? 俺?」 「そーだよ! 俺今日からここに引っ越して来たの!浜田光輝(はまだこうき)! お前はー?」 「…え、あ…あの、えっと……」 「きこえねえなー!お前ちょっと出てこいよ!」  何をどうしていいか分からないまま、俺は慌てて家のドアを開ける。母親から家を出ることを禁止されていたわけではない。でも前に黙って外に出て近所の人と話していたら、理由は分からないがものすごく怒られたので、基本家の中で過ごすようにしていた。久しぶりに出た外はまぶしくて、思わず目を瞑る。そんな光の中から現れた彼の姿を、俺は生涯忘れることはないだろう。 「なんだお前! 色しろっ細っ」 「あ、え、えっと…」 「まあいいや、で、お前、名前は?」 「い、いし……石田、朝……」 「朝ね。お前友だちいなさそうだな!」  いきなりそんなことを言われて、なんだこいつと思ったけど、実際友達はいないし、欲しいと思ったこともない。少年は俯く俺の両頬を掴み、無理矢理視線を合わせた。 「今日から俺が友だちになってやるよ。朝はこれから、ずーっと俺のな!」  にかりと浮かべた笑顔と、夏の光を浴びてキラキラ光る白い犬歯。太陽のようにまばゆい、俺だけの宝物。あの日から俺はずっと、浜田光輝という男に捕らわれてしまった。  光輝は不思議な少年だった。朝、俺の母親が仕事から帰ってきて家にいる間は絶対やってこない。そして母親が昼過ぎに家を出た頃に入れ替わるように家へやって来た。 「光輝はうちのお母さんに会いたくないの?」 「うん。めんどくさそーじゃん。ていうか俺、大人きらいなんだよ」 「……俺も、大人きらいだよ」 「つーかまじ宿題だりーなぁ。俺九月から学校通うのになんで宿題あるんだよ」  光輝は夏休みを利用して転校してきたらしく、九月から同じ小学校に通う予定だった。それで近所に年の近い子どもがいないか探していたところ、出会ったのが俺だったそうだ。文句を垂れる光輝を横目に、宿題を進めていく。母さんはとにかく問題事を起こされるのが嫌いだった。学校から連絡が来ると、いつも決まって不機嫌になり、理不尽に怒られる。だから俺は、小学四年生にしてはかなりの優等生だったと思う。 「朝はまじめだな」 「そうしないと、お母さんに怒られるから」 「早く大人になりてーな。そんで、こんなところ出て行ってやるんだ」 「出て行って、どこにいくの?」 「ん? そんなの決まってんじゃん。俺のこと、だれもしらないところだよ」  光輝がどこかへ行ってしまう。そう考えるだけで心臓の奥が痛くなった。でも光輝はそんな俺の顔をみて、楽しそうに笑う。 「バカだな、お前も行くんだよ」 「お、俺も……?」 「そうだよ。だって朝は俺のだから」  じりじりと夏の日差しが照りつける。部屋には扇風機が一台だけ。温い風を背に受けながら、俺は気が付いた時には光輝に抱きしめられていた。 「ずっといっしょだよ、朝」  ずっと一緒。そんなこと、誰もいってくれなかった。おばあちゃんはいつも「いつか先に私が死ぬ。だから朝、一人になっても生きていけるようになるんだよ」と繰り返していた。だから俺は、いつか一人になると思っていた。 「……光輝は、どうして俺といっしょにいてくれるの?」 「……大人になったらおしえてやるよ」  光輝はそのまま俺を抱きしめ、何か話すわけでもなく、ただぼうっと時間を過ごした。  それから毎日光輝と過ごし、夏休みが明けて二学期になった。光輝とは別のクラスになり、彼はすぐに学校の人気者になった。その時の俺には分からなかったが、光輝は運動神経が良くて、足が速かったらしい。それにたぶん、見た目もカッコよかったんだろう。女子がいつも光輝の周りに集まっているのを見つめていた。そして俺が一人で下校していると、後ろからコツンと頭を小突かれる。 「お前なんでムシして先にかえってんだよ!」 「…俺、女子、苦手だから」 「あー、お前の母さん香水くさそーだもんな」 「見たことあんの?」 「あるよ。だって俺、お前の母さんが家出ていくの見てから入ってんだもん」  なんてことのないように言いながら、隣を歩き始め、白くて痩せ細った俺の腕を握った。 「今日もお前んち、帰っていいよな」 「…なんもないよ」 「お前がいるじゃん」  俺と光輝は二人でいる時、特に何もしなかった。ただ身体を寄せ合って、抱き合って、静かに時が過ぎるのを待つ。お互い話すことはたくさんあったのかもしれないけど、何一つ、言葉にすることはなかったのだ。  そんな日々はあっという間に流れ、中学校に進学する。俺たちは相変わらず同じクラスにはならなかったけど、中学生ともなれば思春期が始まって、周りは恋愛話で浮かれ始める。でも俺は、どうしても異性が得意になれなかった。そしてこの頃になると、俺も自分の母親の職業について知るようになる。母親がぼーっとテレビを眺めていた時、画面に映っていた華やかな女性たち。母親が家を出て行く時に着ているドレスとよく似ている。そしてその人達はホステスと呼ばれていて、男性とお酒を飲んでいた。なまめかしい姿に、思わず顔を背けたのを覚えている。その話を光輝にした時「なに、やっと気付いたの?」と呆れられたように笑われた。キツすぎる香水と、お酒と、タバコの匂い。何もかも普通だと思っていたことが、普通ではなかったのだ。そしてあの人と顔を合せれば、まるで汚いものを見るような目で見つめられる毎日。学校の同級生だけではない。女性を見るだけで、母親の何もかもがフラッシュバックして、恐ろしくなってしまうようになっていた。 「光輝~一緒に移動しようよ~」  隣のクラスの女子が、甘ったるい声を出しながら光輝にまとわりつく。光輝は俺と違って女子と仲が良いから、まんざらでもない顔で楽しそうに廊下を歩いているのをよく見かけた。そして買ってもらったばかりのスマホを使い、あれこれ喋りながら盛り上がっている。俺は連絡したい人なんていないし、持っていなくても不便はない。でも、こうやって光輝との距離も離れていくんだろうなと感じていた。 「ねえ、俺告られたんだけど」 「……ああ、そう。え? 今更なに?」  中学一年になって最初の夏休み。光輝から突然告げられた。だからといって、特に驚くこともない。なぜなら光輝は小学生の時からモテていた。告白なんて初めてのことじゃないだろう。 「いやさー、二年の先輩なんだけど。こえーんだよね。今日親いないから家おいでよとかさ」 「…付き合うんならいいんじゃないの? 別に初めてじゃないでしょ。そんなの」  嫌味っぽくなってしまっただろうか。でも事実、光輝が女子の家に行っていることは知っていた。夏休みが明けて、光輝は俺の家に毎日来ることはなくなっていたし、学校で女子が「光輝くんが遊びに来てくれた」と話しているのを何度も耳にしていたから。 「なに、拗ねてんの?」  男にしては伸びすぎた俺の髪を、彼の指がするりと撫でた。 「拗ねてない。事実を言っただけで…」 「ちょっと髪伸びてきたし、切ってやるよ。ほらおいで」  俺の髪は、光輝がずっと切ってくれてる。昔母さんが家に連れ込んだ男の人が酔っ払って俺にハサミを向けてきたことがあり、それ以来怖くて髪を切りに行けない。自分で前髪を切るのが精一杯であることを打ち明けたら、それなら俺が切ってやると言われたのが始まりだった。 「ふふ、俺将来美容師になろーかな」 「それもいいんじゃない?お前喋るのうまいしさ」 「そりゃどーも」  ―シャキンシャキンと、小気味の良い音が部屋に響く。敷いた新聞紙の上に、髪の毛がふわふわ落ちていった。頭は少しずつ軽くなっていくのに、前方の視界には相変わらず髪の毛がチラついている。 「…なあ、いつも思うんだけどなんで前髪だけ長めに残すの?」 「ん?お前の顔がよく見えないように」 「なんだよそれ」 「だってお前の顔は、俺だけ見えてればいいから」  いつもみたいに「バカじゃねえの」と受け流せばよかったのに、なぜだろう。今日はどうしても、光輝の言葉が気になってしまった。 「……そういうのはさ、彼女にだけ言ってりゃいいんだよ。お前俺らが学校でなんて言われてるか知ってんの?俺、お前の愛人とか言われてんだよ」  光輝は相変わらず友達が多かったけど、給食を持って俺の教室に来てわざわざ一緒に食べるし、体育で合同授業があれば俺から離れないし、休み時間はずっと俺と一緒にいた。女子が話しかけられるタイミングは、朝と移動教室と、光輝が俺を迎えに行く前の限られた時間しかないのだ。だから妬まれてそんなことを言われる。でも、そんな風に言われてもなんと返せばいいか分からない。俺自身、光輝との関係の正しい名前がよく分かっていないのだ。ほんの少しのいらだちを隠しながらその事実を伝えると、光輝は鼻を鳴らして乾いた笑みをこぼした。 「愛人とかバカじゃねーの?俺独身なんだけど」 「そう言う意味じゃねーよ」 「つーかさ、お前はいつになった気が付くわけ?」 「は?何言って……」 「俺さ、ずっと言ってんじゃん。お前はずっと俺のだよって。それってさ、付き合ってるのと何が違うの?」  伸びた前髪をすくいあげられると、開けた視界の先に浮かぶ、光輝の宝石の様な二つの瞳。そして次の瞬間、背中に床の冷たさが広がった。 「ま…おま、は、は?」 「さすがに鈍すぎない?お前」 「だ、って…そんな、うそだろ。光輝は、女子が好きじゃ」 「好きだよ。可愛くて柔らかくてふわふわしてて。でもそれってさ、犬とか猫とかが可愛いのと一緒じゃね?」  両腕を押さえつけられ、抵抗することが出来なかった。彼の左手が俺の頬を滑り、顎へと移動する。そのままぐっと持ち上げられ、彼の唇が重なった。「こいつ、タバコ吸ってるのか?」と、知らない味が広がる不快感に思考が鈍っていく。 「ん……っぐ…っぁ…っは…っこう…き……っ!」 「俺、お前のこと逃がさないよ。約束したじゃん。大人になったら一緒にここを出て行くって。お前俺に嘘つくの?」 「そん…そんなことない…けど……っ」 「けど、なに?」 「こ、こわ…い」 「なにが?」 「…俺は、いつか、一人で生きて行くと思ってたから。急にそんなこと言われても、怖いよ。お前だっていつか、ばあちゃんみたいにいなくなる…」 「お前のばあちゃんは寿命で死んだんだろーが。一緒にすんなよバカかよ」 「寿命じゃねえよ、癌だよ」 「あっそ。じゃあ俺が癌になったら、その時はお前を連れて行くよ」 「無茶苦茶だぞお前……っ」 「諦めろよ、お前はもう俺とずっと一緒なの。お前、俺が他の女と付き合ったり結婚したりしても平気なの?俺なしで生きていけんの?」  表情はヘラヘラしているのに、声色は至って真剣で。俺が自分でも気が付かなかった心の奥底の願望を暴かれてしまうようで、消えてしまいたくなった。 「ほら、言えって」 「……っ」 「お前、こういう時は意外と強情なんだな」 「だ、だっておま…お前……」 「まあいいや、どうせずっと一緒にいるんだし、そのうち認めさせてやるから」  不敵な笑みを浮かべ、もう一度唇を重ねる。顎を無理矢理開かれ、侵入してきたのは彼の熱を持った舌だった。歯列を舐められ、舌先を絡められる。うまく呼吸が出来ず、必死に彼の胸にしがみ付いた。 「ふ……っう、あ…こう、光輝……っ」 「かぁいいね。お前はそうやってずーっと、俺だけ見てれば良いんだよ」  抱き寄せられ、耳元で囁かれる。でも俺はこの時、光輝の身体が震えてることに気が付いた。そうだ、こいつはいつも強引でヘラヘラしているけれど、心の奥底は繊細で、壊れやすいガラス細工のような脆さで出来ていることを、俺は、俺だけは知っている。ゆっくりと彼の背中に腕を回すと、彼は「朝…?」と驚いたような声をあげた。 「……もうずっと、俺の人生には光輝しかいなかったよ。光輝がいなきゃ生きてけないなんて、そんなの当たり前だろ。バカじゃん」 「へえ、そうなの」 「何だよその反応は」 「別に?」 「……でも、誰にも言うなよ。面倒だから」 「いいよ。今はそれで」  光輝はゆっくりと俺の頬に口づけを落とし、床になだれ込むように抱き合う。いつものように、俺たちの間に会話はない。でも、それでも、あの日以上に心が満たされた日はなかったし、幸福を感じた日もなかった。それが永遠に続くことを、あの日の俺は信じて疑っていなかったのだ。  ―それから時は流れて、俺たちは高校受験することに。俺はたぶん親に学費を出してもらえないから中卒になると思っていたが、教師から「推薦で学費免除枠が狙えるかもしれない」と話を持ちかけられた。母親に怒られるのが面倒で真面目に勉強してきた甲斐があったが、この高校の偏差値は地元ではかなり高め。勉強嫌いの光輝には反対されると思ったが「俺がやりゃいいならやるよ」と、何でもないように言われた。そこから光輝の勉強に付き合い受験を終え、俺たちは無事に合格。母親に「学費免除になる高校に受かったから」と伝えると、一枚の通帳と封筒を手渡された。 「これなに?」 「ばあちゃんの遺産と、遺書。高校にかかるお金はそこから出して。卒業したら家も出ていって。もう十分でしょ」  通帳を開くと、そこには百五十万円という数字が記帳されていた。おばあちゃんの遺産をどれくらいこの人が使ったのかは分からない。でも俺はこのお金を元手に生きていけると思うと、気が付いた時には両目から涙が溢れていた。 「……ありがとう、お母さん」  それが、あの人に引き取られて初めて面と向かって伝えた感謝だったと思う。それでも母親は特に何も言うことなく、いつものように仕事へ出掛けて行った。その後静かにおばあちゃんが残した手紙を読み、母が十六で出産したこと、父親は分からないこと、自分の遺産を渡す代わりに俺を引き取るよう話をしていたことを知った。ありがとう、おばあちゃん。おばあちゃんのおかげで俺は、ここまで生きてこられたよ。人生、なんとかなったよ。  ―もうすぐ自由になれる。高校三年間を耐えたら、俺と光輝は自由になれるんだ。でもこの話を光輝にしたら、高校なんて辞めてさっさと出て行こうと言い出しかねないので、ひとまず黙っておくことに。二人で生きて行くなら、最低でも高卒の学歴はあった方がいいと思ったから。でも俺はその日の選択を死ぬまで後悔することになる。 「は~、バイトしんど」 「コンビニでしょ?たまに深夜まで入ってるじゃん」 「お金はあればあるだけいいからな!」  俺たちは高校二年生になり、相変わらず一緒に行動を続けている。変わったことといえば、学校の帰りに二人で自転車をこぎ、自販機でジュースを買って浜辺から海を眺めるようになったことだ。といってもここは遊泳禁止で、アサリなんかもとれない寂しい砂浜で、人もまばらだ。ある物といえば大量のテトラポットくらいだろう。でもその寂しさと静かさが、俺たちを引き寄せたのかもしれない。その日、俺たちは一学期最後の登校日を終え、明日から夏休みを迎えようとしていた。休みの間、光輝はバイトに勤しみ、俺は学費免除枠の生徒としての膨大な課題に勤しむことになる。なので俺たちは思った以上に夏休みは一緒にいられない。光輝はぼんやりとした瞳に水面を映しながら、ぽつりとつぶやいた。 「…くらげって、死ぬと海に溶けて消えるんだってさ」 「へえ、くらげって水溶性なの」 「おまっアハハ!そんなこと言うからモテねーんだよ!」 「え、だ、だって」  ゲラゲラ笑う光輝に思わずむっとする。何がよくなかったんだろうと小首をかしげていると、光輝は笑い疲れたようにため息をつきながら話を続けた。 「……死んだら海に溶けるって、どういうかんじなんだろうな~」 「どうだろう。くらげに痛覚があるのかは知らないけど、溶けながら死ぬのか、死んだ後溶けるのかでも違いそうだね」 「俺、お前のそう言うバカ真面目なとこ好きだよ」 「バカにしてんだろお前」  テトラポットに腰掛けて、足を伸ばす。視線の先では、さざ波が行ったり来たり。その様子を見つめる光輝の瞳は、なぜかとても悲しそうに見えた。 「何かあったの?光輝」 「別になーんも。バイトしんどいなぁって」 「俺もバイトしたほうがいい?ちょっとくらいなら、なんとかなると思うけど」 「お前は成績優秀者で学費免除されてんだから勉強しとけよ。そんでいい会社就職して俺のこと養って」 「ええ……? ちなみにお前は何してくれるわけ?」 「主婦とお前専属美容師」 「ふはっ悪くはないけどさ」  いつものように軽口を叩けば、光輝の瞳の寂しさは薄らいでいったように見える。お金のことは気にしなくていいけど、多いに越したことはないし、光輝は自分のことは自分でしたいタイプだろう。卒業までに貯めるだけ貯めて、その時俺も遺産の話をすればいい。大丈夫、きっと俺たちはずっと一緒にいられるから。二人で手を繋いで自転車まで歩き、併走して帰っていく。すると、道の前から女性が一人歩いてきた。その人を見て、光輝は自転車を止めた。 「姉さん⁉」 「……光輝、お帰りなさい。朝くんも」 「こんにちは、光里(みさと)さん」  光里さんは、光輝の五個年上の姉だ。俺も何度か会ったことがある。色白の肌に、黒く光る長い髪。涼しげな目元に長いまつげ、女性が苦手な俺から見ても、彼女はとても美人だった。 「今から仕事?」 「うん。光輝は今日バイトないんでしょ?」 「あ、うん」 「じゃあちゃんと宿題やんなさいよ。朝くんのおかげでいい高校に入れたんだから」 「や、俺は何も……」 「ううん。朝くんのおかげよ。これからも光輝をよろしくね」  ふわりと優しい笑みを浮かべて歩いて行く。すると一台の車が止まり、彼女はその中へ吸い込まれていった。 「送迎車なんてあるの?光里さんって、何の仕事してるのか聞いたことなかったけど」 「……聞いたって教えてくれねーよ」 「え?」 「なんでもない。帰ろうぜ」  光輝の横顔を見つめながら、夏のあぜ道を自転車で進んで行く。その間特に会話はなかったけれど、いつものことだから特に気にすることはなかった。 「……あ」  家の前で光輝と別れて部屋へ戻ると、知らない靴が一足並んでいる。ああ、今日は連れ込んでいる日なのか。それなら、俺はここにいてはいけない。家の中に入ることはせず、そのままユーターンして自転車へまたがる。こういう時スマホがあったら光輝に連絡出来て便利だし、実際スマホを持つように光輝から何度も言われていた。でも母親に頼むのがどうにもおっくうで、結局契約していない。そういう日は図書館の閉館まで時間を潰し、公園のベンチで夜を明かした。夏はまだいい。これが冬だと最悪なんだよな。通学カバンをベンチにおいて、その上に寝転ぶ。あと何回こういう夜を越えたら、俺たちは自由になれるんだろうね。早く二人になれるよう祈りを込めて、ゆっくりと目を閉じた。  翌日、朝日の眩しさで目を覚ます。公園の時計に目をやると、朝の七時だった。男を連れ込んだ日は、だいたいこのくらいの時間に出掛けて行く。母親の仕事の内容も、出勤時間も知らないが、なんとなくの流れを把握出来るくらいには、この日々は繰り返されている。硬いベンチに眠ったせいでバキバキに痛んだ身体を伸ばし、自転車に跨がり家路に着いた。シャワーを浴びて、適当に朝ご飯を済ませて仮眠をとる。目を覚ました時には十時を過ぎていたが、ここで違和感に気が付いた。 「光輝……?」  いつもなら勝手に上がり込んでゴロゴロしている光輝の姿が見えなかった。バイトは夕方からと言っていたはず。 「……やっぱスマホ、買った方がよかったかな」  俺の家で課題をやると言っていたのに、結局その日光輝が家に来ることはなかった。彼の家を訪ねたかったけれど、俺にはそれが出来ない。詳しい理由は知らされなかったが、俺は光輝に、光輝の家へ近づくことを禁止されていた。 「お前の親がどーかしてるのと一緒。俺の親も普通じゃない。俺は姉さんがいなかったらたぶんとっくに普通の生活は出来なかったと思うよ」  そう言われても、いまいちピンとこなかった。光輝の身なりは毎日整えられていて、スマホも買い与えられ、お小遣いももらっていた。どこからどう見ても普通の子どもだったから。でも、外から見たら分からないこともあるのだろう。 「……光輝は、大丈夫なの?」 「一応ね。うちの親はめちゃくちゃ世間体気にするって言うか、外面はいいから。近所では評判いいよ。優しい両親と働き者の美人な姉がいる、俺は幸せ者ってね」 「光輝……」 「俺、自分の親にお前を見られるのが我慢できねえの。あいつらだいっきらいだから。お願い。俺の家には来ないでね」  そうつぶやいた光輝の瞳に、虚無が満ちていたことを見逃さなかった。その時俺はただ「分かった」と返したけれど、俺は、本当は嬉しかったんだ。俺だけじゃなかったこと。光輝も人に言えない悩みを抱えていて、同じように苦しんでいたこと。だから俺のことを見つけてくれたんだと、本当に、心底嬉しかったんだ。だからこそ俺は光輝の言いつけを守り、自宅に立ち寄ったことは一度もなかった。でも、なんでだろう。体調が悪かったとしても「体調悪い」と言ってうちで寝るようなやつが家に来ないなんて初めてのことだった。場所自体は分かっている。せめて家に人がいるかだけでも確認したい。もしかしたら急きょ家族でどこかへ出掛けなくてはならなくなったかもしれないし、運が良ければ仕事帰りの光里さんに会えるかもしれない。光輝が唯一、俺に話をして、紹介してくれた家族。彼女なら連絡も取れるかもしれない。光輝に怒られてもいい。今度こそスマホも買う。だから一回だけ許してね。小さな希望を胸に、俺は出会ってから初めて光輝の家へ歩みを進めた。 「……誰もいないのかな」  彼の家は、俺の家から歩いて五分もかからない、本当にご近所だった。住宅街の中にある、ごくごく普通の一軒家。表札には「浜田」と書いてあるし、間違いない。でも駐車場には車が一台止まったままだった。一応、念のため、インターフォンを押してみる。二回押してみたが、誰かが出てくる気配はなかった。 「……また明日も、見に来るね」  誰に言うわけでもなく静かにつぶやき、その場を後にする。光輝と顔を合せずに過ごすことは、光輝と出会って以降初めてのことだった。 「……いない……」  結局寝付けず、朝方気絶したように眠り目を覚ました。横を見つめても、そこには誰も居ない。もしかしたら光輝が何食わぬ顔で眠っているんじゃないかと思ったけど、そんなことはなかった。玄関まで足を進めると、そこには赤いヒールが一足。母親が帰っているのか。それなら、顔を合せないように大人しく自分の部屋で過ごそう。起きていても何も手に着く自信がなく、結局夕方まで眠りこけていた。 「……朝、朝」  聞き慣れた声に、意識がぱっと浮上する。ゆっくり目を開くと、そこには待ち焦がれた人の姿があった。 「……光輝!おま、どこに行って…心配したんだぞ!」  上半身を起こし光輝に掴み掛かる。しかしその時、すぐに違和感に気が付いた。 「おま……なん……どうしたんだよ、その顔……っ」  彼の顔は、赤黒く腫れ上がり、数カ所殴られていることが一瞬で理解出来た。 「俺の親ね、会社やってんの。それで、取引先の人にね、子どもを売ってたんだよ」 「は、は……?」 「姉さんは十歳くらいから、ずっとそう言う生活を強いられてた。姉さんがあいつらに、よくないことをされてるって。夜中泣き叫ぶ声がずっと聞こえてたから。この街に引っ越してくる前からずっと、ずっと」  何を言っているのか、まったく理解出来なかった。それは、俺が寝起きのせいじゃない。目の前にいるのは本当に光輝なのか?全身に嫌な汗が流れ、心臓が早鐘を打つ。しかし目の前の男は、お構いなしに話を続けた。 「中学生になって、姉さんに言われた。高校を卒業したら必ず家を出ろって。それまで私もアナタを守るから、耐えなさいって。親は世間体を気にする人達だったから、俺が良い子どもでいれば、言うことを聞く良い子だったら、姉さんが受ける扱いも少し良くなるから。自慢できるアクセサリーに、傷が残るようなことは許可しないからってね」 「こう…光輝、は…なにも、されなかった、の……?」 「いや、何度もされそうになった。ショタコンなんて掃いて捨てるほどいるだろ。でも、姉さんが止めてくれた。守ってくれた。私だけで十分だろうって」  海辺を歩く、美しい人が脳裏をよぎる。あんなに優しくてキレイな人が、そんな仕打ちを受けているなんて一ミリだって想像出来なかった。気が付いた時には、俺の視界はどんどんと水に溺れていった。 「でもね、姉さんが消えたんだ」 「は……?」 「姉さんに会った日、車に乗って仕事に行っただろ。俺はてっきり、いつもみたいに親の仕事場からの迎えなんだと思ってた。でも違った。姉さんはこの街から逃げた。駆け落ちしたんだって。親父の部下だった人と」  あの日、光里さんは言った。光輝をよろしくと。まさか、そんなこと。 「……それでも、あいつらは取引先に商品を用意しないといけない。だから俺が連れて行かれた」  その言葉で、彼がどんな仕打ちを受けたか想像出来ないほど、俺は無垢でもバカでもないつもりだ。月明かりに照らされた彼の顔は、赤黒く腫れ、目の下には消えない隈がこびりついている。俺と別れた日から、この部屋にたどり着くまでに、どんな地獄を見てきたのだろう。震える手で、彼の頬に手を伸ばした。 「姉さんから、最後まで守れなくてごめんなさい。でも彼との子どもが出来たから、どうしても産みたい。別人になって暮らしたい。ごめんなさいって。でも姉さんを責めるなんてありえないだろ。十五年以上、あいつらに搾取され続けて、こんなお荷物の俺を守ってくれてたんだ。感謝こそすれ、恨むなんてありえない」  手に、雫がふたつ。それは彼の瞳から流れ落ちたものだった。俺は彼と出会ってから、彼が涙を流しているところを見たことは一度もなかったことに、ふと気が付いた。 「情けないな。たった一日、たった一日だけなのに、俺、もう、無理だと思ったよ。こんな生活があと、どれだけ続くんだ?」 「……逃げよう、今すぐ逃げよう。高校なんてどうでもいいよ。二人で逃げればなんとかなるよ」 「そんな金、どこにあるんだよ」 「ある、ばあちゃんの遺産がある。黙っててごめん。だから」  部屋に響くのは、俺と彼の心臓の音。どうか、どうか、うんと言って欲しい。逃げると言って、抱きしめて。二人で逃げよう。しかし彼は俺を抱きしめることなく、ゆっくり立ち上がり、窓際の方へ歩いて行った。 「光輝……?」 「……もっと早く、教えてくれてたら、逃げたかもしれない。でも、もうダメだよ。俺の身体、もう、ダメなんだ」  ボタンを一つ一つ取り、彼の白い肌が露わになっていく。そこに浮かび上がったものは、身体中に残る、あと、あと、あと。  目を覆いたくなるような、おぞましいものだった。 「こ……うき…光輝……っ」 「目を瞑ったらね、思い出すの。俺に群がる、汚い大人。いっぱい。殺してって言っても、かわいいね、きもちいいねって。そればっかり。誰も俺のことなんて見てない、聞いてない。まるで、人形にでもなった気分だった」  彼は胸ポケットから何かを取り出す。カチリと伸ばされたそれがナイフだと気が付くのに、時間は掛からなかった。 「……いいでしょ、これ。姉さんがね、小さい頃護身用に渡してくれた。使ったことは一回もなかったし、実際使おうと思っても何にも出来なかったけどね」  刃先が月明かりに照らされて、不気味なほどにキラキラと光っている。彼はナイフを両手で握りしめ、俺の目の前に座り込んだ。 「俺ね、その時に死んだんだ。もう、無理だよ」 「違うよ、ダメだよ光輝。光輝は今こうして生きてるよ」 「ねえ、朝」  光輝の声が、好きだった。声変わりをして、低く掠れるような心地の良い低音。耳に響いて離れない、大好きな、彼の甘い、甘い声。光輝に名前を呼ばれることが好きだった。でも、今は、今はもう……。 「一緒に死んでよ。俺がいなくなったら、生きていけないって言ったじゃん」  両目いっぱいに涙を溜め、諦めたような笑顔を浮かべる。ああ、どうして、どうしてこんなことになってしまったんだろう。あの日海辺で笑い合った光輝は、もういない。帰ってこないと、本能で理解した。何も答えない俺を見て、光輝は悟ったんだろう。ナイフを自分の腹へ向け直した。彼が何をしようとしてるのか、分かっているはずなのに、身体が動かない。どうして、どうしてなの、光輝。 「俺が、なんでお前と一緒にいたか教えてあげる。お前が、可哀想だったからだよ。見てすぐ分かった。あいつは、きっと、可哀想な子どもだって」  彼と初めて会った日のことを思い返す。何日も着替えていない服、痩せた身体、伸びきった髪の毛、誰がどう見ても、普通の子どもではなかっただろう。 「こいつといれば、俺は自分が可哀想じゃなくなると思った。自分より可哀想な人間を見て安心してた。朝と一緒にいる間だけ、上手く息が出来ていた。だから手放したくなかったし、ずっと一緒にいようって本気で思ってたよ」 「こう、き…」 「でも、それももうおしまい。お前はばあちゃんの遺産で、遠くに逃げればいいからさ」  ずぐりと、彼の腹の中へ沈んで行く、鈍色の光。そして溢れる、赤。 「や、ま、やめて!やめて光輝、光輝‼」  光輝の力はすさまじく、細い俺ではびくともしない。彼は最後の力を振り絞って顔を上げ、ふっと笑みを浮かべ、小さな声で囁いた。 「俺と一緒に死んでくれないなら、俺に蝕まれて死んで」  そのまま、バタリと俺の方へ倒れ込む。抱きしめた彼の身体はまだ温かくて、死んでいく人間とは思えなかった。どうすれば、いいんだろう。どうすれば、どうすれば。 「何してんの⁉」  真っ白になる思考の中に響いてきたのは、久しぶりに聞く、母親の声だった。母親は何かひたすらに俺に話しかけていたけれど、何一つ頭に入ってこない。気が付いた時には救急車が止まっていて、光輝はタンカに乗せられていった。そして俺は母親に手を引かれ、一緒に救急車に乗せられる。色々聞かれたけれど、答えられたことといえば「光輝が、家族に虐待されている」「ナイフは、光輝が自分で刺した」「俺は、止められなかった」ということくらいだった。俺と母親は手術室の前に座らされる。何時間そうしていたかは分からない。でも手術室から出てきた医者の顔を見て、光輝が助からなかったことを理解した。 「待ちなさい、どこに行くの‼ 朝‼」  いつ以来か分からない、母親に呼ばれた自分の名前。でもそんなことはどうでもいい。俺が一番名前を呼んで欲しかったあの人は、もうこの世にいないんだ。走り続けた先にたどり着いたのは、彼と毎日の様に眺めた海。    ―…くらげって、死ぬと海に溶けて消えるんだってさ。 「うん、ごめん。今すぐ、今すぐ行くから…待ってて…」  海へ足を進めようとしたその時、俺の視界はブツンと切れて、次に目が覚めた時目の前に広がったのは、見知らぬ天井と、和室。ああ、俺はまた死ねなかったんだと絶望し、重たい身体を引きずり外へ出て、ひたすら海を目指して歩いた。 「光輝、ごめん、今行く、今行くから…」  

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