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第4話
――目を瞑れば、瞼に焼き付いていつでも思い返せる。
俺の全てだった、世界でただ一人、好きだった人。
――目を瞑れば、鮮明に蘇る。目に涙を一杯に溜めた、彼の瞳。
全身に広がる、彼の重み、消えていく、彼の熱。
どろり、手の平についた、彼の、血。
『俺と一緒に死んでくれないなら、俺に蝕まれて死んで』
――お願い、行かないで。行かないで。
一緒に行くから、待って、置いて行かないで、光輝、光輝。
『もし、朝が死にたいって言うなら、俺も一緒に死んであげる。心中しようよ、朝』
――そう言って、泣きながら笑うのは、俺を見つけて、手を引っ張り上げてくれた人。
「…しん、たろ…さん…」
視界がぼやけていて、目に涙が溜っていることに気が付く。裾で涙を拭って上半身を起こせば、隣には静かに寝息を立てて眠る新太朗さんの姿があった。俺の夢に出てくる人は、片手で足りる。ばあちゃんと、光輝と、母親と、母親が連れ込んだ男の人。そして…
「……おはよう、新太朗さん」
眠る彼のおでこに、自分のおでこを小さく重ねる。ああ、生きている。この人は、ちゃんと生きている。良かった。
「…ふん、ぁあ……」
「えっあ、お、え、あ」
「…んはっ…なあに、でっかい目!」
「や、あ、あの、ご、ごめんなさい」
「何が?起こそうとしてくれたんでしょ。ありがとう。おはよ、朝くん」
「お…おはよう、新太朗さん」
寝起きでぼんやりしているのか、いつもよりぽやんとした新太朗さん。俺を見つけてしまったばっかりに、しなくていい苦労ばかりをかけて申し訳ない。しかも俺は今日からこの家でお世話になる。ある日突然現れた、どこの誰とも知らない子どもを受け入れてくれたこの人に、俺は一体、何を返せるだろう。
「とりあえず、朝ご飯かな…?」
「朝くん、お腹すいたの?」
「あ、えっと、ほら。俺、料理するって言ったのに全然やってないから。朝ご飯からかなって」
「気にしなくていいのに、朝くんは真面目だねぇ」
朝は真面目だね。彼が、口癖のように繰り返していた言葉が、脳内で反芻する。
「どうしたの?朝くん」
「……真面目は、いや?」
光輝はどういう意味で、俺のことを真面目と言っていたんだろう。今となっては分からないけれど、俺はなんとなく、光輝に真面目と言われるのがイヤだった気がする。何でと聞かれたらそれもよく分からないけれど。
「うーん。真面目なのはね、いいことだけど、朝くんが疲れちゃわないか心配なのよ」
「疲れる?」
「真面目であるのはいいことだけど、正直者が馬鹿をみるなんて言葉があるくらいだからさ。ちょっとサボったり、力抜いてるな~って分かんないと、心配になるのかもね」
「…サボる、かぁ」
「そう。例えばもっと寝たい、ゴロゴロしたい、そんな日の朝ご飯は菓子パンでいいのです」
「キッチンに大量にあるやつ?」
「そう!牛乳と菓子パンでいいのです。で、作れる日はお願いします!」
新太朗さんは勢いよくベッドから身体を起こして立ち上がり、俺に手を差し伸べる。この人はいつでも、俺に手を伸ばしてくれた。恐る恐る手を握ると、彼は嬉しそうに笑みを浮かべる。
「虎はもう学校行ったかもなー。うさはまだ寝てんのかな。様子見ていこう」
うさくんの部屋をノックして入ると、うさくんはまだすやすやと寝息を立てていた。
「今日は寝かせておこうか。朝くん、これから実家でしょ?」
「あ、うん」
「じゃあパパッと食べて、パパッと行っておいでよ。待ってるからさ」
「…分かった。早く帰って来るね」
顔を洗って、歯を磨いて。新太朗さんと一緒にパンを食べる。すると、新太朗さんが立ち上がって服を持ってきてくれた。
「ちょっとデカいかもだけど、俺のシャツと虎のズボンね」
「ありがと。今日ちゃんと洋服持って帰ってくるから」
「荷物すごいいっぱいあるんじゃないの?やっぱ車出そうか?」
「ううん。たぶんボストンバッグ一個で足りちゃうよ。服と、学校で使う物しか持ってないし」
こうして振り返ると、俺は本当に物の少ない人生を送ってきた。持っている物も、思い出も、なにもかも。それを寂しいとも切ないとも思わないけれど、なんだか突然、自分が空っぽのように思えてきた。
「そっか!じゃあ落ち着いたら、今度必要な物を買い足しに行こうか」
「え?」
「朝くん用のパジャマとか、まくらとか、色々!食器セット買ってもいいよなぁ」
「そ、そんな、なくてもいいよ」
「いいじゃん。買っちゃおうよ!自分の物が家にあったほうが自分の家っぽくなるじゃん」
新太朗さんはいつも、俺が欲しい言葉をくれる。それはきっと狙って言っているわけじゃない。この人の優しさが、そういう言葉を紡がせているんだろう。
「……分かった。約束ね」
「おう!じゃあ気を付けてね」
「うん、行ってきます」
新太朗さんに手を振って、家までの道を歩き出す。ここから実家のアパートまで、歩いてたぶん三十分くらい。生活圏は全然被っていないから、同じ地域に住んでいても俺らに接点は一つもなくて。あの海辺が、俺と新太朗さんを結んでくれたのだと思うと、心臓が締め付けられるような気分になった。
「光輝……」
海を見れば、思い浮かぶのはたった一人。たった一人のはずだった。目を瞑り、頭を左右に振る。早く行こう。それで、早くあの家に帰るんだ。新太朗さんに渡された腕時計に目をやると、時間は九時四十五分。ちょっと早かったなと思いつつ、深呼吸をして自宅のドアを開けた。
「……ただいま」
ただいま、なんて初めて言ったな。帰ってくることのない返事を気にすることなく、リビングへの扉を開ける。そこには、窓の外を眺める母親。テーブルの上は、ボストンバッグと手提げ袋に入った勉強道具と課題が入ったファイルたちが並んでいた。
「まとめてくれてありがとうね」
相変わらず返事はないが、荷物を受け取るために母親の隣に立つ。そして、ふと気が付いた。俺のほうが…身長、高くなってたんだな。小さい頃、俺はこの人がとにかく怖かった。何を考えているか分からなくて、俺に向けられる視線はいつも冷たくて、俺が何をされていても、この人が助けてくれることはなかった。引き取ってくれたけど、ただそれだけ。何もしてくれない、まるで画面の向こうにいるような人。でもこの人も生きていて、確実に歳を重ねていて、俺はもうあの頃より、この人が恐ろしくない。そして俺は今日、この人と最後の別れを迎えるんだ。
「……アンタは、産むのに一晩中掛かって、産まれたのが、朝だった」
母親の口からこぼれ落ちた、おそらく、俺の名前の由来。知らなかった。自分が生まれた時間なんて。名前の意味なんて。この人と目が合うことは、数えるくらいしかなかった。目があっても、冷たい視線に死にたくなるだけだったから。でも、こちらへ振り返った彼女の視線に、その冷たさは感じられなかった。
「お金。無駄遣い、しないのよ…… 朝」
「……うん。身体に気を付けてね、母さん」
振り返ることなく家を出る。そして、高校に入る時にばあちゃんの遺産で初めて買った自転車にまたがり、アパートを後にした。
あの日、救急車を呼んでくれてありがとう。ずっと、肩を抱いてくれてありがとう。名前を呼んでくれて、ありがとう。
「さようなら、母さん」
ボストンバッグを背負い、前のカゴには大量の夏休みの課題が詰まった手提げカバン、荷台には教科書をくくりつけて、夏のあぜ道を走り抜ける。普段からもっと運動しておけばよかったな。息は上がるし、汗でびしゃびしゃだ。でも、どうしてだろう。不思議と辛くない。あと少し走れば見えてくる。黄色い屋根の、幸せのにおいがする一軒家が。
「あー! 朝ちゃーん! おかえりなさーい!」
「お~! すげえ荷物!大変だったでしょ」
「……はぁ…はあ……っ」
自転車を止め、ハンドルにぐったり体重をかける。そんな俺のもとに笑いながら駆け寄ってきてくれる、お日様みたいな暖かい人。
「おかえり朝くん! シャワーしておいでっ」
「……うん。ただいま、新太朗さん」
新太朗さんと一緒に荷物を降ろして、ひとまず客間へ運び込む。シャワーを浴びて着替えると、新太朗さんが少し視線を泳がせながらこちらへ歩いてきた。
「朝くん、これ」
そう言って手渡されたのは、白くてつるりとした四角い板。それがスマートフォンだと気が付くのに、時間は掛からなかった。
「え、え、いつ……え⁉」
「朝くんが出掛けてるうちにね!間に合ってよかった~」
スマートフォンを契約するとなれば、車を出してショッピングモールまで行かないといけない。俺が出てすぐ準備をして、大慌てで契約してくれたんだろう。どうしてこの人は、俺のためにそこまでしてくれるのだろう。今彼の顔を見たら泣いてしまいそうで上を向くことが出来ない。すると、彼の手が優しく頭の上に重なった。
「この家で過ごすなら、保護者は俺になるからさ。スマホは必要だと思ってさ」
「で、でも、お金……」
「言うと思った。家事をやってもらえばそれで十分!」
今まで、連絡を取りたいと思った人は一人しかいなかった。そして、連絡を取りたいと思っていた人は、もういない。俺には必要ない物だと思っていたのにな…。ぼうっとスマートフォンの画面を眺めていると、新太朗さんの指が伸びる。画面をタップしていくと連絡帳が表示され、そこには一件だけ、連絡先が登録されていた。
「……高盛、新太朗…」
「そう。今度から何かあったら迷わず俺に連絡して。それから今度、ラインの使い方も教えてあげるから。便利でいーよ!」
「…ありがとう新太朗さん。あの、改めてよろしくお願いします」
「こちらこそ。よろしくね朝くん」
うだるような七月のこと。俺の人生はいつも、夏の日差しが降り注ぐ日に動いていく。今日から俺は、高盛家で新たな人生をスタートさせることになった。
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