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第5話

 俺の一日は、買ってもらったばかりのスマートフォンにセットしたアラームに起こされるところから始まる。虎くんは部活のために朝早く出掛けて行くから、朝食の用意は俺と新太朗さんとうさくんの三人分だ。眠い目をこすり、キッチンへと降りていく。冷蔵庫を開けて、今日のメニューを考えた。 「うーん……」 「朝ちゃんおはよう‼」  大きな声に振り返ると、そこにはパジャマ姿のうさくんがニコニコと笑顔を咲かせていた。こんな風に朝からおはようなんて言われる生活がほぼ初めてで、やっぱり戸惑いが隠せない。 「お、おは、おはよう、うさくん」 「朝ちゃんがいる~!」 「う、うん。いるよ。これからご飯作るね」 「ごはん!なあに?」 「えっと、お味噌汁と、焼き鮭と、白米と、卵焼きです」 「すごーい! やったー! 歯みがいてくる!」  元気に走って行くうさくんを見送り、手早く朝食作りを始める。三人分の朝食を作るのは、人生で初めてのことだった。 「おはよお朝くん」 「おはよう、新太朗さん」 「良い匂いすんね。何手伝おうか?」 「じゃあ、お茶碗出してください」  新太朗さんはまだ眠たそうに目をこすっている。俺のせいで仕事が押しているんだろう。昨日夜に一度目が覚めた時、パソコンのタイプ音が聞こえたから。 「今日は朝くんの部屋を作らないとなぁ」 「俺別に、どこでもいいよ」 「そうもいかないでしょ。すげえ宿題の量だったし集中して勉強する場所は必要じゃない?」 「…俺、高校辞めたっていいんだ。もう」  元々中卒で働くつもりだったけど、光輝とこの街を出るなら学歴が欲しいと思っただけ。その目標が失われた今、俺に勉強するモチベーションは一切なかった。新太朗さんの問いにそれ以上答えることはせず、卵を三つボウルに割入れ、白だしとみりんで味をつける。 「へー!醤油とかで味付けるんじゃないんだ」 「ばあちゃんから教わったんです。新太朗さん、甘い卵焼きはヤダ?」 「ううん、大好き!俺味噌溶くねぇ」  俺が家事を引き受けると言ったのに、なんだかんだ手伝わせてしまって申し訳ないな。でも、二人で並んで過ごしている時間は酷く安心するので、断れずにいるのも事実だった。 「あー、新ちゃんおはよ~!」 「おはよーうさ、ご飯出来るまでテレビ見てて」 「はーい」  それから二人で朝食を作り、三人で手を合せてご飯を食べる。新太朗さんもうさくんも喜んでくれて、とりあえず一安心だ。 「ねえ朝くん、さっきの高校の話だけどさ、朝くんが決めたことなら、俺はいいと思うよ」 「…ごめんなさい。困らせたかったわけじゃないの。中卒で働けるところなんて限られてるし、やるしかないのは分かってるんだけど」 「まあちょっと休んで留年もありじゃない?そしたら虎と同い年だよ」 「…イヤでしょ、こんな浮きまくってる先輩と同級生になるなんて。一時的とはいえ同じ家に住んでるしさ」 「あはは、たしかにちょっと複雑だね」 「……ちゃんと考えるよ。ごめんね新太朗さん」 「いいよ、いつでも相談して」  朝から重苦しい会話をしてしまったにも関わらず、新太朗さんは優しい笑顔で話を聞いてくれる。誰かが自分の話を否定せず聞いてくれるだけでこんなに心が安らぐということを、俺は初めて知った。  それから食事を終え、俺は後片付けを、新太朗さんは仕事を、うさくんは宿題を進めることになった。俺はうさくんの宿題を見つつ、家事をこなしていく。これだけ広い家だと、掃除をするのも一苦労で、家を維持してきたお母さんを尊敬する。廊下掃除をしていると、うさくんがノートを持って駆け寄ってきた。 「どうしたの?うさくん」 「んーとね、絵日記!朝ちゃんがうちの子になって一日目!」 「え、ええ?」 「朝ご飯をつくって、おそうじしてくれてる朝ちゃんの絵かくの」 「それ学校に出したら先生戸惑うんじゃないかな……⁉」 「どうして? 朝ちゃんは新しいかぞくでしょ?」  うさくんの澄んだ瞳に、かすかに反射する自身の顔。俺はこの家の家族になって、いいんだろうか。 「朝ちゃん、あしたもあさっても、ずっといてね」 「……うん。ありがとう、うさくん」  うさくんはにこりと笑みを浮かべ、邪魔にならないようにと端っこに座って俺の絵を描き始めた。もしかしたら今までも、こうやって誰かの絵を描いていたんだろうか。少し前までこうして掃除をしていたであろう、母親の姿を…。 「すみませーん!」  ドアの向こうから、大声が響く。インターフォンを鳴らさず声が響き、思わず肩を震わせた。 「あ!ふーちゃんだ!」  うさくんは女性の声を聞いて玄関へ走って行く。そして扉の向こうに現れたのは…… 「うさくん! こんにちは。新太朗さんは?」 「おしごとしてるよお! ふーちゃんもおしごと?」 「そうそう、あとこれ差し入れね」 「わ~い!」  うさくんとのやり取りを無言で見つめていると、ふーちゃんと呼ばれている女性がこちらへ気が付いた。視線がぶつかると、女性はぱあっと花が咲いたような笑顔を浮かべる。 「もしかしてアナタが朝くん⁉」 「えっへ、えあ、え」 「ま~! 本当に美少年じゃないの~」  女性は靴を脱いでこちらへ歩いてきて、僕の両手を握りしめる。あまりの出来事に固まってしまったが、女性は構わず話を続けた。 「初めまして、私は南野風花(なんのふうか)。新太朗さんとは結構長い付き合いでね」 「は、え、はい」 「色々大変かと思って、これ差し入れのお惣菜」 「あ、りがとう、ございます…?」 「うふふ、お昼に食べてね!じゃあ私新太朗さんに用事があるから」  僕に惣菜を手渡すと、南野さんはそのまま二階へと上がっていく。僕はその様子を、ただ呆然と見つめていた。 「朝ちゃん、どーしたの?」 「へ?え、あ、う、ううん。なんでもない…あの、南野さんはよく家に来るの?」 「うん! ごはんいっぱいもってきてくれるの。新ちゃんのおともだち!」  心臓が、早鐘を打っているのが分かる。そりゃ、そうだ。新太朗さんは優しいし、見た目だって俺から見れば男らしくてカッコいい。恋人がいないわけがないんだ。 「朝ちゃんだいじょうぶ?おかお、まっさお」 「……大丈夫。洗濯物、干してくるね」  廊下の掃除を切り上げ、洗い終わった洗濯機の中から衣類を取りだしてカゴへ放り投げる。今、二階に行きたくない。ザワザワした心臓を落ち着かせるため、無心で洗濯物を干していった。 「ただいまー。あの、石田先輩?石田せんぱーい」 「……え、へ、あ、と、虎くん⁉」 「はい、ただいま帰りました」 「今日早いね⁉」 「午前までの日だったんです。それよりそんなに窓拭きして、どうしたんですか?」 「や、あ、あの、な、なんだろうね……」  あれから無心で家を掃除し続けて、ついには窓拭きに手を出していたらしい。自分でも気付かなかったけど、何か不安なことがあると一つの事に没頭してしまうようだ。今まではそれが勉強だったのかも知れない。 「玄関の靴、あれ南野さんですよね」 「知ってるの?」 「たぶん新兄さんの仕事関係の人だと思うんですけど、兄さんがどういう仕事してるか、僕知らないんですよね」 「え、そうなの?」 「南野さんにも聞いてみたんですけど、はぐらかされちゃって。ヤバイ仕事ではないと思うんですがねえ」 「…そっか……」  それ以上、なんと答えていいか分からなかった。だって自分でも、なんでこんなに心臓が痛むのか理解出来ていなかったのだから。 「あの、石田先輩」 「え、あ、はい。なに?」 「そのぉ……差し支えなければ宿題を見て欲しいんですが」 「え⁉」 虎くんの予想外のお願いに、自分でもびっくりするような大きな声が出る。 でも虎くんは特に驚くことなく話を続けた。そりゃ、新太郎さんに比べたら普通の声なのかもしれないけど。 「自分で言うのも何なんですけど期末めちゃくちゃやばくて……。実は僕、八月中部活出られないんです。成績やばすぎて」 「ああ、そっか、うち進学校だもんね。部活より勉強か」 「石田先輩、一組ですよね?一組って確か、学業成績優良者の集まりだから」 「…うん、一応ね。学費免除組だから」  俺の言葉を受け取り、虎くんの表情が明るくなる。こんな風に誰かに勉強を教えてなんて言われるのは、光輝以外では初めてだった。 「でも俺、教えるの上手か分かんないよ?」 「全然大丈夫です!お願いします!僕絶対部活辞めたくなくて…」 「……いいよ。俺今ニートだから」 「あはっ高校生でしょ?」 「わかんない。辞めちゃうかもね」 「そんなに頭いいのにですか⁉」 「……虎くんも、俺の噂、聞いてるでしょ。今更戻ったってね」  虎くんは、はっとした表情で俺を見つめる。この子はきっと、優しい子だ。優しい子をこれ以上困らせてはいけない。 「じゃあリビングでもいい?うさくんの相手をしながらになるけど」 「もちろんです!お願いします」  それから宿題を教えていく。虎くんは文系でとにかく計算ミスが目立っていた。 「公式は分かる感じ?」 「そうですね、仕組みはなんか分かるんですけど…」 「分かってるなら、それを当てはめていくだけだよね。問題文だと思わず文章だと思って読んでみたら?数学って文系関係ないと思われがちだけど、出題文章は結局日本語なんだよ。ざっと読んで問題の意味を理解できるようになれば、そこに公式を当てはめるだけ。計算自体は早いし、まずは読解に集中してみようか」 「すごい。めちゃくちゃ頭良い人が喋ってる」 「茶化してないで、ほら、やるよ」  シャーペンをカチカチと押して芯を出し、ノートのページを滑らせる。思考がどんどん文字の世界に溶けていき、さっきまでの胸の苦しさやザワザワは、少しずつ遠のいていった。 「……とーら、朝くーん」 「……はっ!え、あ、新太朗さん⁉」 「兄さん!」 「あはは、二人ともすげえ集中してんね。うさ寝ちゃったよ」  新太朗さんの指さす方へ視線をやると、クッションを抱きかかえて眠っているうさくんが飛び込んで来た。 「あ、あああ、ご、ごめんなさい!集中しちゃって……」 「いいよいいよ。むしろ虎の勉強まで見てくれてありがとうね」 「新兄さん、仕事は?」 「終わったよ。南野も帰ったから」 「…あ、あの、南野さんから、お惣菜……」 「聞いた聞いた。それもおかずにして、昼飯にしよっか」  新太朗さんの温かい手が、総菜を持った俺の手を撫でていく。それだけで、胸の奥がチクリと痛んだ気がした。    ――それからも、俺の日常は続いていった。高盛家の家事をして、虎くんとうさくんの宿題をみる。たまに新太朗さんが車を出して、遠くのスーパーへ買い物に出掛ける。一つ変化があるとしたら、新太朗さんと虎くんとラインを交換したことだ。家で毎日会うけど、一応ということで。そして、俺の日常でもう一つよく見る光景が…… 「こんにちはー」 「いらっしゃい、南野さん」 「朝くん!今日もおつかれさま~。あがるわね」  南野さんが、週に二回、必ずうちへやってくるようになったことだ。南野さんは、栗毛のショートカットに、ハッキリした目鼻立ち。白いカットソーとグレーのパンツスタイルで、カッコいい働く女性。女性が苦手な俺から見ても、溌剌とした明るい良い人だということが分かった。そして新太朗さんの部屋から聞こえてくる、楽しそうな笑い声。南野さんがいると、俺は二階に近づけなくなる。その理由から、目をそらし続けていた。 「……でも、お茶くらい出した方がいいよね」  麦茶を入れたグラスを二つ持って二階へ上がる。思えばこうやってちゃんとお茶を出したことがないなんて、家事を担う者として良くなかったのではないか?ちゃんと謝ろう…そう思いながら静かに廊下を歩いていると、新太朗さんの隣の物置部屋の扉が開いた。 「……ぬげ」 「はい?」 「いいから脱げえ!」    ――ガシャンッ 手に持っていたグラスは廊下に落ちて砕け散り、麦茶が海のように広がっていく。そして俺の視界に広がるのは、鈍く光る金髪と、切れ長の瞳。寝不足のくまがこびりついた、病的なまでの白い肌。 「やっうあ、うひ、い……」  頭の中は真っ白で、声も出ない。でも、それでも、頭に浮かんだのは…… 「しん、たろさ……っ」 「何してんだバカ竜‼」 「っでえ!」  身体が思い切り浮き上がり、両腕に抱きしめられる。振り返らなくてもそれが誰なのか瞬時に理解出来た。 「ごめん朝くん!大丈夫⁉」 「う、あ、あ……」  緊張して言葉を返せずにいると、南野さんの大声が飛び込んできた。 「なにやってんの竜一朗(りゅういちろう)くん!」 「りゅ、いち…へ……?」  新太朗さんに頭をどつかれ、ベッドにうずくまっているその人が、ギロリとこちらを睨み付ける。 「ごめん、ちゃんと紹介してなくて。こいつは高盛竜一朗。俺の弟で、重度の引きこもり」 「え、こ、この部屋物置だったんじゃ……?」 「そう言っておかないと、朝くん世話焼いちゃうでしょ?こいつ自分以外のヤツが部屋入るとバチギレんのよ」 「い、今俺が部屋に引きずり込まれそうになったのは……?」 「えーっとね…こいつはイラストレーターで、スランプになって追い詰められると生身の人間にモデルを求めるのよ。いつもは俺が相手してるんだけど、油断した。まさか朝くんを引きずり込むとは……」  はあ、と深いため息をつく新太朗さんに、ギロリと視線をぶつける竜一朗さん。この二人本当に兄弟なのか?というくらい顔も雰囲気が似てなくて、思わず顔を交互に見つめる。 「うるせえ~! しょーがねえだろ生身の人間見るほうが筆が走るんだよ!」 「バカおめえ朝くんに一生消えないトラウマ植え付けるところだわバカ!」 「虎とうさに手出すなつったのお前だろ! じゃあこいつしかいねえだろーが!」  俺たちの騒ぎを聞きつけ、一階にいた虎くんとうさくんも上へ上がってくる。「どうしたの?」と不安な声を出す虎くんを見て、もう隠せないと悟ったのか、新太朗さんがため息をつきながら話を始めた。 「あー、もう分かった分かった。えっとな、黙ってて悪い。まず竜一朗はただの引きこもりじゃなくてイラストレーター。で、俺は小説家なの」 「しょ、小説家ぁ⁉」  虎くんが驚きの声を上げる。俺ももちろん驚いていたが、上手く声を出すことが出来なかった。 「だから言いたくなかったんだよ……」 「え⁉いや、あの、ビックリしただけで」  小説家という仕事を悪いものだと思っていないのに、新太朗さんの気を悪くしてしまったのかと冷や汗が出る。しかし扉の向こうの南野さんは、ケラケラ楽しそうな声をあげた。 「アハハ! 新太朗の見た目、全然小説家っぽくないじゃん?ちょっとコンプレックスなんだよね」 「どっちかつーと海の家の兄ちゃんだもんな?」 「もううるせえ!」  顔を真っ赤にして、南野さんと竜一朗さんを怒る彼は、俺の知らない困った顔を浮かべていた。新太朗さんは一呼吸置いて、話を続ける。 「…で、竜一朗と俺はコンビなの。俺の小説の表紙と挿絵は全部こいつが担当。で、家に戻ってきたのは親父からの頼みもあったけど、竜が、戻ってこなかったらイラストレーター辞めてやるって脅してきてな……」 「たりめえだろ、俺にこの二人の世話が出来ると思うか。自分の世話すらままならねえんだぞ」 「お前今年ハタチになるんだぞ…いい加減にしろよマジで……」  頭を抱えながらため息をつく様子を見て、俺も少し頭が追いついてきた。それに竜一朗さんが新太朗さんの弟なら、もう怖くない。それでも相変わらず腕の中で抱きしめられているので、心臓の鼓動は少し早いままだった。そんな俺のことを竜一朗さんはずっと見つめたままで、なんなら睨み付けられている気がして、思わず顔を背ける。すると視線の先には目を丸くして不思議そうな表情を浮かべるうさくんが立っていた。 「ねえ朝ちゃん、イラストレター(・・・・・・・)ってなに?しょうせつかってなに?」 「…えっと、イラストレーターね。お絵かきをする人。小説家は物語を考える人だよ」  俺の説明に相変わらず首をかしげるうさくん。虎くんが「あとでね」と頭を撫でれば「分かった!」と笑顔を浮かべた。 「あとついでに言うと、南野は俺らの担当編集ね」 「え、えあ、え⁉」 「二人が同じ家に住むって言うから、せっかくなら直接打ち合わせしようと思ってさ!出版社は東京なんだけど、私は産後こっちで生活してたから丁度いいやみたいな」 「え、あ、ご、ご結婚されて……え?」 「結婚自体は五年前、二年前に出産してこっちに来たの。リモートより対面で話した方がアイディアも浮かびやすいでしょ?なのに竜一朗は隣の部屋からリモートで参加すんの。意味分かんないわよね!」 「うるせえ、女は嫌いだ。つうか人が嫌いだ」  ケラケラ笑う南野さんと、ふてくされる竜一朗さんを見て、胸の中のモヤモヤしたものが、すっと溶けていくのを感じた。 ……そんな、うそだ。だってこれじゃ……。 「驚かせてごめんな、朝くん。竜一朗のことは基本放っておいていいから」 「わ、かりました……」 「それよりポーズ」 「だから俺がやってやるからちょっと待ってろ!」  竜一朗さんの金髪が落ちて黒くなった部分をコツンと叩く。二人は全然似てないけれど、二人の間に流れる空気は、確かに兄弟であることを思わせた。 「さて、じゃあ飯にしようか。南野はもう帰るでしょ?」 「当たり前でしょ、旦那と子どもが待ってるんだから!ていうか二人とも新作の締め切り守りなさいよね⁉」  今まで二人のやり取りを見るとモヤモヤしてばかりだったのに、今は何も感じない。ああ、神様、どうしてですか。俺、こんなの、気が付きたくなかったよ。    ――その日のことは、もうよく覚えていない。新太朗さんが終始心配してくれていたけど、上手く返事をすることが出来なかった。俺は基本客間で過ごしているけれど、眠るときは新太朗さんの部屋で寝ている。でも今日は上手く寝付けなくて、新太朗さんが眠っているのを確認してから、リビングへと降りた。 「……はぁ……」 「何してんだ、居候」 「ぅひっ」  暗闇のなか、ギロリとこちらへ向けられる視線。それは、この家の次男の竜一朗さんだった。 「す、すいません、ね、ねね、寝付けなくて」 「そこ座れや」 「へ」 「イイから座れ」 「は、はい」  圧をかけられ、逃げることも出来ず椅子へ腰掛ける。竜一朗さんはコーヒーを入れていたのか、マグカップを持って椅子に座った。 「お前、新太朗のこと好きなの」 「っ⁉」  想像だにしない問いに、思わず目を見開く。しかし竜一郎さんは決して茶化している様子はなく、一切俺から視線を逸らすことはなかった。 「いいから答えろよ」 「そ、え、あえ、えっと…あ……」 「…まあいいや。よく分かってなさそうだし。でも新太朗を傷付けるなよ。面倒だから」  視線も表情も冷たいけれど、新太朗と口にした時の竜一朗さんの声は、ほんのり熱を帯びているように感じた。 「……あれ?」 「んだよ」 「や、あの、全然関係ない話なんですけど」 「言えよ」 「……竜一朗さん、なんですね。次男なのに」  ふとした疑問だった。普通、新太朗ときたら竜二朗と続きそうなのに。俺の言葉に、竜一朗さんは一瞬視線を投げた。 「お前、うちのクソババアの話は聞いてるか」 「へ?あの、亡くなったお母さんですか?」 「そーだよ。俺はあのババアがとにかく嫌いだ。俺の女嫌いの元凶と言ってもいい」 「え、え?」  竜一朗さんの瞳に一層殺意が宿った気がして、思わず肩が震えた。 「俺と新太朗は四歳年が離れてる。ババアがおかしいと思ったのは、虎が生まれた時だった。あいつ、虎に虎二朗ってつけたから」  なんとなく、なんとなく感じていた、新太朗さんが家族に覚えている疎外感の正体が見えてきた気がした。でもそれは、俺が覚えた違和感の正体でもあるのかもしれない。 「……新太朗さんと、明確に自分の子どもを区別したってことですか?」 「名前に気づくだけあって、勘良いじゃん。ほんっとセンスねーよ。竜一朗・虎二朗・兎三朗だぜ?それなのに次男三男四男だぞ、クソ分かりにくいわ。しかも虎と兎で干支にするなら竜の俺は順番的に三男になるけどな⁉新太朗いれたら四男だけどな⁉ほら分かりずれえ!」 「…えーっと、(とら)()(たつ)ってことですか?」 「そーだよ!それで言ったら漢字も干支で統一しろって話だしな⁉そしたら俺は辰一郎(たついちろう)?クソだせえな!あのババアやることが中途半端なんだよ!頭の足りてねえクソババアが!」  心底軽蔑するような瞳で、母親への悪口を吐き捨てる。母親は故人のはずだが、それでも彼の憎悪は増え続けているのかもしれない。 「あの……お母さんは、そんなに酷い人でしたか?」  俺の問いに、竜一郎さんは一瞬眉をひそめたあと、絞り出すようにつぶやいた。 「……自分の子どもには、優しい人だったかもしれねえな」  冷たい声で母親への悪口を吐き捨てていたが、俺の問いかけに答えた声は、寂しげなものだった。 「本当の子どもって…それ……」 「…俺がババアと新太朗の溝に気付いたのもそのくらいだ。ババアは、親父がいる時はみんな平等に接してたけど、親父がいねえ時は、新太朗はいないものみたいに接してた。無視とは違う。本当に見えてないみたいだったな」  見たこともない、小さな新太朗さんの姿が浮かぶ。お母さんに手を伸ばしても届かない。寂しそうな瞳を浮かべる、新太朗さん。 「俺がババアを問い詰めてもそんなことしてねえの一点張りでな。マジで女はこえーと思ったよ」  この時、やっと理解した。新太朗さんの「家に居場所なんてなかった」と言う言葉の意味。それは、嘘でも何でもなかったんだ。 「…じゃあ、竜一朗さんもあんまり家族とは上手くやれてなかったんですか?」 「あー、まあ家族っつーか主にババアだけど、下の二人はババアに懐いてたから、俺のことは怖かっただろうし、それは今も同じだろうな」 「でも、新太朗さんのことは大事…なんですよね?」  俺の問いかけに、竜一朗さんの表情がほんの少しだけ和らいだのを、俺は見逃さなかった。 「…ゴリゴリ反抗期でグレまくってた俺の相手をしてくれたのは新太朗だけだったし、見事社会不適合者になった俺をなんだかんだ見捨てないでくれたのも新太朗だ。だからお前、マジで新太朗泣かすなよ。殺し屋雇って殺すからな」 「殺し屋って本当に存在するんですか……⁉」 「知らんけど」  冗談なのか本気なのか分からないが、彼はいたって真剣な顔のまま珈琲を流し込む。視線をマグカップに落としたまま、話を続けた。 「…お前は、余計なことは聞かないんだな」 「へ?」 「ババアが死んだ理由とかさ」 「……僕も、聞かれたくないことの一つや二つはありますので」 「…ま、気を許せば新太朗が話すだろ。じゃあな」  竜一朗さんは手際よくカップを片付け、静かに自室へ戻っていく。今まで彼の痕跡を感じなかったのはちゃんと自分のことは自分でやっていたからなんだと、ふと思った。 「…新太朗さん…」  竜一朗さんから聞かれた、新太朗さんへの思い。そんなの、簡単に口にできるはずがない。だって俺は今でも、光輝に捕らわれたままなのだから。    ――その後、竜一朗さんから特に何か声を掛けられることもなく、平穏な夏休みは続いた。八月の半ばに差し掛かったある日の夜、新太朗さんがパソコンを持ってベッドに腰掛け、俺を隣へ呼び寄せる。 「ね、朝くん見てこれ」 「これは……旅館、ですか?」 「そう!旅館って言うかホテルだけど。今書いてる話がね、芸能人と男子高校生の話でね、二人でお忍びデートに行くんだけど、このホテルを参考にしようと思って!プール付きでめっちゃ豪華なの!芸能人が予約してそうな感じしない⁉」  興奮気味に話しながら、ページをスクロールしていく新太朗さん。俺とは縁遠い場所だけど、見ているだけでも素敵な場所ということはよく分かった。 「素敵ですね」 「でしょ?それで良かったら、俺の取材旅行に付き合って欲しくて」 「……へ⁉」  この家に来てから、驚くことばかりだ。ずっと変な声を出して、目をこれでもかと開いてる気がする。でもそんな俺の顔を見て、新太郎さんは心底楽しそうにしていた。 「明後日から親父が帰って来るんだよ。三日泊まるっていうから家開けても大丈夫!いつも家事してくれてるお礼…になるか分かんないけど!」  まさか、新太朗さんと旅行に行ける日が来るとは想像もしていなくて、俺は思わず返答に困ってしまう。すると、ポケットに入れたスマホが震えた。 「…あ、竜一朗さん」 「え⁉ なんで⁉」 「この前、無理矢理交換させられて」 「えぇ…で、なんて?」 「旅行断ったら殺し屋雇って殺すって」 「あのバカはぁ…」 「…あの、俺でいいんですか?」  そんな、恋人と行くような場所に俺と二人なんて、新太朗さんはイヤじゃないんだろうか。そう思ったけれど、口に出すことは出来なかった。俯いていると、頭の上に心地の良い熱が重なる。 「朝くんとだから行きたいんだよ。ね?」 「……はい、じゃあ、よろしくお願いします」  こんなに素敵な思い出を貰えるなら、諦めがつくかもしれない。ああいう場所に行くのは、新太朗さんにお似合いの素敵な女性。俺じゃない。そのことをイヤでも理解出来るいい機会だと思った。    ――電車とバスを乗り継いで、到着したのは観光地の大きな駅。ここから一時間ほど歩けば、目的のホテルに辿りつくらしい。新太朗さんはスマホで地図を表示しながら、ウキウキした表情で話しかけて来た。 「どーする? バス乗ってすぐ行くのもいいし、観光して行くのもいいし!」 「せっかくの取材なら、色々見ていきましょうか。こういうのって写真とか撮ったりするんですか?」 「するする!あのね、俺回りたいコースがあるんだけどいい?」 「もちろんです、先生」 「茶化さないでよ。じゃあ行こっか!」  名産品を使った美味しい食事、お土産屋さん、こんなにキラキラして、楽しい時間を過ごしたのは人生で初めてかもしれない。それに、こんな風に楽しそうにはしゃいでいる新太朗さんを見たのも初めてで、本当にずっと楽しくて…。それなのに、どこか胸が締め付けられていた。 「……わあ、きれい」  ふと目に止まったのは、露店に並んでいる風鈴。夏を知らせる、涼しげな宝石たちだ。 「なんか風鈴ってくらげに似てるよな」 「ええ? どの辺が?」 「ふよふよ風に揺られて泳いでる感じ。あと頭の形!」 「……ふふ、そうですね、たしかに」 「お土産に一個買ってく?」 「うーん、いいです。割れたら悲しいから……」  この旅で、形に残る物を買うことは気乗りしなかった。だって俺は、新太朗さんへの気持ちを閉じ込めるためにここへやって来たんだから。俺が断ると「そっかぁ」と寂しそうにつぶやく新太朗さん。ゴメンね、今度は素敵な彼女と来て、その時二個買って帰ればいいんだからねと、心の中でつぶやく。風鈴の音を聞きながらホテルへの道を歩き出すと、俺の脳内にどんどん暗い霧が立ちこめていった。    ――俺の人生は、光輝に出会ってから光輝に捕らわれていて、当たり前のように光輝に恋をして、光輝と人生を生きていくと思っていた。でも光輝がいなくなった今、その選択は考えてみれば普通じゃない。男同士の恋愛なんて、何も残らない。誰にも祝福されない。虚しくて寂しくて、空っぽなものなんだろうな。そんなものに、新太朗さんを付き合わせるなんてことは、俺には到底出来なかった。 「朝くん、あーさくん」 「……あ、ごめん。なんの話してたっけ?」  あれから、頭の中には濁流のように不安なことが流れ込み、常に後ろ向きなことばかり考えて旅行に集中出来ていなかった。今も目の前に美味しそうな食事が並んでいるのに、その味は全く分からなかった。 「ごめんね、疲れちゃったよね。色々付き合わせちゃったからさ」 「違うよ、俺も楽しかったから。嘘じゃないよ」  どう言えば、今日俺が心の底から楽しかったことが伝わるだろう。でも、実際考え事で暗い顔をしていたのは事実だ。本当、なにをやっているんだと自分が情けなくなる。それでも新太朗さんは俺を気遣い、優しい笑みを浮かべていた。 「ほら、今日はお風呂入って早く寝よう?それで明日も観光して、ゆっくり帰ろうよ」 「……うん、ごめん新太朗さん」 「露天風呂、一緒に入る~?」 「えっう……ううん! 一人で入るっ‼」 「あはは、じゃあごゆっくり」  逃げる様に準備を整え、露天風呂へ駆け込んだ。しかし、露天風呂自体来ることが初めてで、誰かがいるかもしれない空間が落ち着かず、ざっと浴びてさっさと出てきてしまった。恐る恐る扉を開けると、そこには、月明かりに照らされてぼんやり光る新太朗さん。声を掛けることは出来ず、じっと見つめていると、彼はすぐにこちらへ振り返ってにかりと微笑む。 「あ~あ、烏の行水じゃないんだから!」  苦笑いを浮かべながらタオルを俺の頭に置いて、くしゃくしゃとなで回す。新太朗さんは今、どんな顔をしているだろう。その表情を見る勇気は出なかった。 「よし、もういいよ。今日は付き合ってくれてありがとう。おやすみね」 「新太朗さん、お風呂は?」 「朝くんが寝たら入るから。ほら、布団に入って」 「うん、おやすみなさい」  旅館の人が敷いてくれた布団に身体を沈め、瞼を閉じる。瞼の裏に焼き付いていたのは、月明かりに照らされた新太朗さんだった。こんな風に、目を閉じてまで姿が浮かぶ人は今までにいただろうか。考えただけで心臓がいつまでも痛む人がいただろうか。こんなに怖い感情が自分に芽生えるなんて、想像もしていなかった。明日になったら消えてしまえばいいと本気で願いながら、意識が眠りに落ちていくのを静かに待った。    ――朝くん――  優しくて、柔らかい。 彼の声は、温かい牛乳を飲んだ時みたいな安心出来る声だった。 ずっと聞いていたい、大好きな声だった。  ――朝くん、俺、結婚するんだよ―― 「…はっ……」  勢いよく飛び起きると、全身冷や汗をかいてるのがわかる。時計に目をやると、まだ朝の四時。横に視線をやると、そこにはすやすや眠る新太朗さんの姿があった。浴衣に着替えているから、きっとお風呂に入れたんだろう。よかった。 「…はぁ……」  両手で前髪をかきあげ、ため息をつく。  夢を見た。新太朗さんが結婚する夢を。でもそれは、決してありえないことじゃない。  遠くない未来の話。だから、こんな風に怖がるなんておかしな話なんだ。

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