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第11話
天は二人を見放さなかった。
次の日、二人は道端に落ちている財布を発見した。男物の財布の中には、たくさんのレシートと、合計一万円ほどの現金が入っていた。
煌の頭にモスバーガーと山盛りのポテトが浮かび、ゴクリと唾を飲み込んだ。しかし、すぐに玲衣の顔色を伺う。育ちの良い玲衣がどんな反応をするのか気になったのだ。
煌の視線に気づいた玲衣が顔を上げた。二人はしばらく視線を交わした後、玲衣は真顔で言った。
「ねぇ煌、先にご飯にする? お風呂にする? それとも僕にする?」
最後の言葉の意味を理解するのに数秒かかった。
笑い飛ばせばいいものの、顔が火を吹きそうなほど熱くなる。
「ばっ、馬鹿」
それだけ言うのが精一杯だった。はっきり言って、最後のは洒落にならない。
そんな煌を見て、玲衣は吹き出した。
玲衣は煌と付き合うようになってから、本来の明るさを取り戻していたが、逃避行を始めてから、その明るさはさらに増しているように見えた。
今の玲衣のこの明るさが、空元気でなければいいと、煌は願った。
最初は銭湯で身体をスッキリさせてからバーガーに食らいつくつもりだったが、腹を満たしてからゆっくり湯船に浸かるのも悪くないな、と煌は迷ってしまう。
「じゃあさ、バーガー食べてお風呂入って、またバーガー食べようよ」
玲衣の提案に、煌はハイタッチで応じた。
財布にはクレジットカードも入っていたが、逃走中の二人が警察に届けるわけにもいかず、どうせもう使えないだろうと玲衣が言った。
二人は財布を落ちていた場所に戻し、モスへと走った。
太陽の光が差し込む大きな窓際の席で、二人はバーガーとポテトを夢中で貪った。
あっという間に平らげてしまい、少し迷ったが、二人とも二個目のバーガーを注文した。それも食べ終えると、ようやく一息ついた。
「玲衣、口にソースついてる」
煌は自分の口元を指さした。玲衣は舌先をペロリと出すが、ギリギリでソースに届かない。
「違う、もうちょっとこっち、いや、そっちじゃなくて」
もどかしいやりとりが続く中、玲衣は煌に向かって顔を突き出した。
「もう面倒くさい、煌、取って」
後から考えれば紙ナプキンがテーブルの上にあったのに、その時はなぜか、煌はそのまま手を玲衣の方へと伸ばした。その指先を、玲衣はペロリと舐めた。
「うわっ」
驚いて手を引っ込めた煌は、勢いよく肘を椅子にぶつけた。腕に電流を流されたような痺れが走る。
玲衣は痛みに悶える煌を見て笑い転げた。目には涙まで浮かべている。
玲衣の涙が窓から入ってくる光を受けて、虹色にキラキラと輝いた。玲衣の白い肌が眩しく、細く柔らかそうな薄茶色の髪が透けて見えた。
温かくて、優しくて、この上もなく美しい光景だった。
学校の授業なんてまともに聞いていなかった煌だったが、以前に歴史の授業で習った、中世ヨーロッパの絵画に出てくる天使のようだと思った。
玲衣の笑顔は極上で何か特別なものに思えた。玲衣が笑うと世界が輝いた。
この笑顔を大事にしたい。
心の底からそう思った。
玲衣を喜ばせるためなら、自分はなんだってする。
それで玲衣がこんなふうに笑ってくれるなら。
玲衣が好きだ。
泉のように溢れてくるその気持ちを、煌はもう認めるしかなかった。
「煌? ごめん、笑いすぎちゃったかな、もしかしてムッとしてる?」
玲衣が心配そうに首を傾げる。
「まさか、こんなことぐらいで怒らないよ」
「よかった。じゃあ、でもさっきから真剣な顔して何考えてんの?」
「玲衣のことが好きだなって思って」
玲衣は目の前でシャボン玉が弾けたように一瞬目を丸くしたが、すぐに「僕も煌が大好きだよ」と顔をほころばせた。
うん、と煌は精一杯明るく頷いてみせた。テーブルの下で痛いほど手を握りしめながら。
玲衣の好きと自分の好きは違う。
胸が軋んだ。
「ね、お風呂行こうよ」
煌の泣きそうな顔に、玲衣は気づくはずもなく立ち上がると、「早く」と煌の手を引っ張った。
銭湯の脱衣所でいつまでもぐずぐずしている煌をよそに、玲衣はなんの躊躇いもなく服を脱ぎ捨てる。
必死で玲衣の方を見ないようにしても、裸の玲衣が隣にいると思っただけで、心臓が爆発しそうになった。
先に入っていいと言ったのに、玲衣は一緒がいいと煌が服を脱ぐのを待っている。
玲衣の視線を感じながら、煌はのろのろと服を脱いでいった。
「煌って着痩せするタイプだよね」
「それ、俺が太ってるってこと?」
「そうじゃなくて、煌って意外と筋肉質なんだなって思って。ほら、会った時は僕より小さくて小柄なイメージだったから」
なんて反応をしたらいいのか分からずにいると、玲衣はフイッとひとりで浴場に行ってしまった。
「なんだよ、一緒に入るって言ってたのに」
そうぼやきながらも、玲衣がいなくなってくれてホッとする。
入り口に番台がある昔ながらの銭湯は、お決まりのように浴場の壁面に富士山の絵が描かれていた。
洗い場で頭と身体を洗い、湯船に浸かる。一週間ぶりの風呂はまさに極楽だった。身体の細胞という細胞が歓喜しているようで、おのずと声が出る。
「ぷっ。煌ったらなんかおっさん臭い」
いつの間にか、すぐ横に玲衣がいた。湯船の下で揺れている白い身体に、煌の視線が慌てふためく。
お風呂からあがったら炭酸飲みたいとか、コンビニでアイスでもいいなとか、そんな話を玲衣がしてくるが、煌は相槌を打つのがやっとだった。
なぜならさっきから湯船の下で、煌の中心が硬く頭をもたげ始めていたからだ。
濡れ髪が張り付いた玲衣の形の良い額が、ほんのりと上気した頬が、湯から見え隠れする華奢な鎖骨が、煌の雄としての本能を刺激した。
意識を他に向けようにも、本人が目の前にいるものだから、そんなこと修行僧でもなければ無理というものだ。早く玲衣が風呂から上がってくれないかと、そればかり願った。
しかし、玲衣は一向に湯船から出る気配がなく、煌にピッタリとくっついて離れない。
「玲衣はサウナとか入らないのか?」
「う〜ん、あんまり。でも煌が入るのなら入る」
「水風呂は?」
「それもあんまり。でも煌が入るのなら入る」
それじゃ意味がないのだ。
煌はカラスの行水タイプで、あまり長く湯船に浸かる方ではない。最初は心地よく極楽だった湯船が、だんだんと地獄の釜に入っているような気分になってくる。
やばい、このままだとのぼせる。
煌の下半身はさっきと比べると熱さで若干衰えはしたものの、まだまだ元気だった。この状態で湯船から出るわけにはいかない。
次第に頭が朦朧としだし、視界が歪み始めた。熱すぎて何が何だか訳が分からなくなってくる。
そのうち、歪んでいた視界がだんだんと暗く狭くなってきて、人の話し声や水音が遠のいていく。自分の意識が懸命に何かを訴えていたが、もはやそれを思考に変換することさえできなかった。
煌!
遠くで玲衣の声がしたような気がした。
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