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第35話
差し入れをことづけた後も、すぐには立ち去りがたかった。なかなか帰ろうとしない玲衣に、さっきからこちらの方を時々見ていた警官が声をかけてきた。
「君、今日学校は?」
休みです、と小声で返すと、玲衣は建物の外に出た。
窓から中の様子をうかがえないかと、建物の周りをうろうろする。
ポツリと頬に冷たいものが当たって見上げると、どんよりとした雨雲が空を覆っていた。湿った空気が重く感じられる。
煌もこの建物のどこからか、この空を見ていたりするのだろうか。少しでも長く、煌と同じ空の下で同じ空気を吸っていたかった。
一台のタクシーが敷地内に入ってくると、入り口の前で止まった。
中から四十代くらいのスーツ姿の男が降りてきて、近くにいる警官に何やら尋ねている。二人が同時に玲衣のいる方を見たので、玲衣は慌てて建物の裏へと回った。
何気なく振り返ると、二人が玲衣を追ってきているではないか。
「ちょっと待ちなさい、君」
警官が呼びかけるのも聞かず、玲衣は走った。
その時、裏口から二人の警官が出てきて、すぐ目の前に停めてあるワゴン車に乗り込んだ。
その二人の警官に挟まれるようにして車に乗せられた人物がいた。
「煌?」
後ろ姿が一瞬見えただけだったが、玲衣は煌だと思った。
スラリとした体躯に筋肉のついた形の良い背中。
玲衣はワゴン車に駆け寄った。
窓には金網が取り付けられ、中からカーテンが引かれているので車内はよく見えないが、そこに人の気配を感じた。
「煌!」
玲衣は叫んだ。
中のカーテンが揺れたように見えた。
車はエンジン音を上げると、ゆっくりと動き出した。
玲衣は車に追いすがる。
「危ない!」
追ってきたスーツの男に腕を掴まれるが、それを振り払い、玲衣は車を追った。
「煌!」
いつの間にか先回りしていた警官が目の前に現れ、玲衣を抱き込んだ
「煌!」
暴れる玲衣を、追いついてきたスーツの男が後ろから押さえ込んだ。
警官の肩越しに、ワゴン車が走り去っていくのが見えた。
煌がパトカーで連れて行かれた時のことがフラッシュバックし、玲衣の目から涙が溢れた。
スーツの男は、義父がよこした玲衣の迎えだった。
朝、玲衣がいないことに気づいた母が、すぐに義父に連絡したのだった。
新しいスマホを与えられた時、常にG P Sをオンにしておくことを約束させられていた。
そんな口約束はどうにでもなったが、スマホがあるといざという時便利なので、今回はそのままにしておいたのだ。
この一件以来、玲衣に見張りが付くようになった。
義父の下で働く男たちが、玲衣の部屋の前に交代で四六時中見張っているのだから、相当な厳重体制だ。
あれは絶対に煌だった。
その時の光景を、玲衣はもう何十回も脳内で再生させていた。
あの時、車内のカーテンが揺れたように見えた。外からは何も見えなかったが、内からは外が見えたはずだ。
煌は玲衣に気づいてくれただろうか。
気づいたのなら、煌なら返事をしてくれたはずだ。
それがなかったということは、気づかなかったのだろうか。
だとしても、差し入れで玲衣が来たことが分かってもらえるはずだ。
煌は漫画のメッセージに気づいてくれるだろうか。
煌はあそこにいる、あの北の地の、あの留置場にいる。
ほとんどの場合、接見禁止処分は検察に起訴されるまでの間だとネットに書いてあった。
それが本当だとしたら、遅くとも後二週間で、煌の処分は解かれることになる。
そうしたら煌に会える。
問題は二週間後、どうやって厳重な見張りを巻いてあそこまでたどり着くかだ。
何かいい手はないものかと、玲衣は日夜頭をひねった。
そうして、二週間が経った。
二週間考えた結果、二階の自分の部屋の窓から脱出するしかない、という結論に至った。
決行は闇に身を紛れさせることのできる夜だ。
夕食後、自分の部屋に戻ろうとした玲衣は、義兄に呼び止められた。
義兄の喉元に玲衣がナイフを突き立てて以来、義兄とは一度も口をきいていなかった。
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