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第5話 透明な壁がそびえ立つ

〈恋しい、明良をぎゅっとしたいよ。脱いだスリッパはちゃんとそろえろとか、ゴミの分別が雑だとか、口うるさいのも恋しい……〉  ペーパーフィルターが散乱し、 「翔馬……翔馬なのか!?」  明良は弾かれたようにあたりを見回した。駆けだし、寝室はおろかドラム式の洗濯機まで覗いて回ったすえ、とぼとぼと引き返してきた。 「幻聴が聞こえるようじゃ末期だな……」  自嘲気味に嗤いながらコーヒーメーカーをセットする。家事は分担制でも抽出が終わったあとは明良の出番──が習慣化した。  今夜も二客のカップにコーヒーを()ぎ分けると、ハシビロコウ・バージョンのほうは翔馬の定位置だったテーブルの向こう側に置く。あしたも、あさっても繰り返されると信じていたひとコマを再現したうえで、カップを口許へ運んだ。  翔馬は頬が紅潮するような気がした。コーヒーを飲むさいは、必然的に唇がカップの縁を挟む。何気ない動作で、にもかかわらず淫技をほどこすところを髣髴(ほうふつ)とさせる。  明良は乳首を舐めつぶし、ぷっくり膨らんだのを甘咬みするやり方を好んだせいで。  唇が、縁の曲線を写して僅かにへこむ。喉仏が上下するのにともなって離れる。ついばみ足りないと称して、おれの乳首をいじりたおしたときみたいだ。翔馬は甘やかさと切なさをない交ぜに、追憶に耽った。  明良とのセックスは幸福のひと言に尽きた。蛇口をひねると水が出るほどの当たり前さで、夜っぴって愛し合う歓びを享受していた前世の自分が、羨ましくも妬ましい。  (なが)の別れが迫っていると予感していれば、もっと、いっそのこと玉門がずたぼろになるまで躰をつないでいた。  後悔でいっぱいなだけに、サボテンからもたらされたマル秘情報は福音に等しい。翔馬があげたカップを通算一千回、明良が使ってくれしだい神秘的な力がこの世の(ことわり)を超越してのける、という。  一千回──ゴールは遠い。仮に毎日三杯ずつコーヒーを飲んでも、規定数に到達するには一年近くかかる計算だ。  条件を満たすまで残り一回、の時点で別のカップに取って代わられた場合は悲惨だ。再挑戦といきたくても、運を天に任せるしかない立場だ。  と、明良が出窓ににじり寄った。写真の翔馬に頬ずりせんばかりに、フォトフレームに顔を寄せる。 「悲劇の主人公ぶるのはナルシシズムがすぎるな。けどな、翔馬。おまえに先立たれてからこっち、心の中が空っぽだ……」  せめて野良猫に転生していれば、と翔馬は神さまだかの気まぐれを呪った。餌をねだりにきたふうを装って部屋に居着いてしまえば、少しは慰めになったかもしれないのに。

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