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第26話

口の中に、血の味が広がった。 僕は猫の獣人だから、人族と比べると犬歯が牙に近く尖っている。恐らく、その犬歯がレグラス様の皮膚を食い破ったんだ。 意図せずに洩れ出る「ふーっ」という威嚇音は、僕が怖がっているからだ。 でもそんなこと、レグラス様が知るわけもない。 ただ急に噛み付いてきた、厄介な獣人……と思われたと思うと、もうどうして良いか分からなくて、ぽろぽろと涙が溢れ出してしまった。 でも緊張で強張った身体から力を抜くこともできなくて、噛み付いた口を開けることもできない。 レグラス様に発情した僕を「慰め」させただけじゃなくて、こんな噛み付いて傷付けてしまうなんて。僕は一体どうしたら……。 混乱する僕の耳に、レグラス様の静かな声が響いた。 「サグ、ソル、それからダレンも、一度席を外してほしい」 カタン、とダレン様が立ち上がる気配がする。側に控えていたサグとソルが、レグラス様の命に従って離れていくのが分かった。 三人とも、一言も言葉を発せず、静かに立ち去っていく。カチャリと小さく音を立てて開いた扉は、そのすぐ後にパタンと軽い音を立てて閉じてしまった。 それが何となく、彼らの中で僕に対しての関心がなくなった音に聞こえて、淋しくて堪らない。 逆立った尻尾を抱き締めたまま、ふるふると小さく身体を震わせる僕の名前を、レグラス様がそっと呼んだ。 「ーーフェアル」 返事をしなきゃ……。 そう思ってはいるけど、自分の身体は思うように動いてくれない。 そんな僕の額に、レグラス様は口付けを一つ落としてきた。 「怖がらせて済まなかった」 ちゅっ、とリップ音の後にレグラス様が囁く。そのまま彼の唇は僕の鼻筋を辿り、軈て未だ噛みついたままの僕の口の近くまで降りてきた。 薄っすらと目を開けてみると、僕はレグラス様の左の人差し指の、第二関節と第三関節の間に噛み付いているのが見えた。 ふと、目の前にレグラス様のお顔がドアップで映り込む。 ビクリと肩を揺らすと、肩越しに覆い被さるように僕を覗き込んでいたレグラス様は、その長い睫毛が縁取る目を伏せた。 彼の僅かに薄い唇が開いて、赤い舌が覗く。じっと注視していると、その舌先が僕が噛み付いている所に伸びてきた。 ぺろり……と、躊躇なくその部分が舐められる。 「君は何も悪くない。何も恐れる必要はない。だから、どうか私の話を聞いてくれないか?」 レグラス様の囁く声は、静謐な空間の中で穏やかに響く。僕を気遣うようなその声に、強張っていた僕の身体から力が抜けた。 そろりと口を開けると、しっかり歯型がついたレグラス様の指が見える。と同時に、ぷくりと血が出て盛り上がり、流れ落ちそうになって、僕は咄嗟に舐め取った。 「……ありがとう」 肩を抱くように回されたレグラス様の右手が、僕の額にかかる髪を掻き上げる。もう一度、額に唇を落としてきた。 「………噛んでしまって、ごめんなさい」 俯きながら小さな声で謝罪する。 何を考えるべきか、どう言葉を紡ぐべきか……頭の中は真っ白で、何も思い浮かばない。謝意の言葉も、随分辿々(たどたど)しく、幼子のような言葉しか出てこなかった。 「ーーっ、ふ……」 そんな僕に、レグラス様は思わず……といった様子で、小さく笑いを洩らした。 レグラス様の、珍しい笑い声に思わず顔を上げると、彼は少し懐かしそうに目を細めて僕を見ていた。 そして唇は笑みの形のまま、僕の額に当てていた手でクシャっと頭を撫でてくる。 「君の幼い頃を思い出すな……」 「ーー僕?」 レグラス様の言葉に、僕はキョトンと瞬き首を傾げた。 レグラス様の言葉って、まるで僕の子供の頃を知っている様な感じだったのだ。 そんな僕を見つめていたレグラス様は、僕の脇に手を入れると軽々と持ち上げ、彼の膝を跨ぎ向かい合うような形で座らせた。 「……っ、え?」 ーーなに、この状況……。 思いっきり困惑する僕を他所に、レグラス様は僕の額と自分の額をコツンと合わせて目を閉じた。 「ああ、君だ。実のところ、君に噛まれるのは、二回目なんだ、私は」 「え?」 覚えのない事を言われて、僕は言葉をなくす。 じっと至近距離にあるレグラス様の整った顔をじっと見つめていると、彼は僕の視線に気付いたのか、ゆっくりと瞼を開き綺麗なアイスブルーの瞳を覗かせた。 「久しぶりだな、『フィー』」 久し振りに呼ばれた僕の愛称に、数日前に見た夢を思い出す。 母様が居なくなって、淋しくて淋しくて。 感情に引き摺られて魔力暴走を起こしそうになった時に助けてくれた、綺麗な青年。 彼が名乗った名前は、確か……。 「ラス、様?」 「そう」 良くできたとばかりに、頬に口付けられる。 あの時の僕は幼すぎて、お名前を紡ぐのが難しかったんだ。それに気付いて、彼が教えてくれた愛称だけを覚えていた。 「え?本当に?」 信じられなくて、ぱちぱちと何度も瞬きをしてしまう。 昔すぎて、幼すぎて、ラス様の姿形は忘れてしまっていたけど、綺麗なお顔だった事と、その美しいアイスブルーの瞳はよく覚えていた。 レグラス様は合わせていた額を離し、すっと上半身を起こすとゆるりと眦を緩めた。 「私を見ても気付いていない様だったから、暫く様子を見ようと思っていたが、まぁ仕方ないだろう」 「レグラス様が、ラス様?本当に?……でも……」 言葉を切って、僕は口を噤む。 僕の国から帝国に留学で送り出されるのは名家のハズレ者だった。 でも帝国から来る留学生は、確か皇族だったはずなんだけど……。 ーーえ……、レグラス様って皇族なの?

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