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第90話

「さっきは何に驚いていたんだ?」 学院長室を出て廊下を少し歩いた所で、不意に足を止めたレグラス様が僕に尋ねてきた。僕を見下ろすアイスブルーの瞳には、心配そうな光が宿っている。 僕はレグラス様を見上げていた顔を、後へと向けた。学院長室の扉がまだ見える距離だ。小声で話せば大丈夫かもしれないけれど、万が一にでもあのニケ神官には聞かれたくなかった。 僕が何を心配しているのか察知したらしいソルが、ちらりと辺りに視線を流して僕に頷いてみせる。 「大丈夫」って事かな? でもまだ不安が残る僕は、直ぐ目の前にあった回廊へとでる扉を指さした。 「あちらで話てもいいですか?」 「勿論だ」 レグラス様が頷くと、すかさずサグが動き、扉を開けてくれた。レグラス様が僕の腰を優しく押し、先に出るようにと促してくる。それに応じて、僕は回廊へと足を進めた。 四人とも扉を潜り回廊に出ると、レグラス様が僕をじっと見下ろして無言のまま、さっきの話の続きを促してきた。 「あの、あの学院長室にいた土の精霊が、僕に向かって『使徒様』って言ったんです」 その言葉に三人の目が見開かれる。僕は、そんな彼らに順に目を向けて、小首を傾げた。 「でもニケ神官は、僕に闇属性があるから使徒ではないと言っていましたよね?」 「…………」 無言のまま僕を見下ろしていたレグラス様は、暫く考えを巡らせているのか、何も言葉を発する事はなかった。 それをそっと見守っていると、レグラス様はおもむろに口を開いた。 「もしかしてアステル王国が欲している使徒と、神官が言っていた四方に封じられた聖魔獣は同じものなのか……?」 「ーーえ?」 「「ーーっ!」」 レグラス様の言葉に、僕はぱちりと瞬いた。後ではサグとソルが息を飲む気配がする。 「でも……聖魔獣は、もともとは魔獣なんですよね?魔獣が使徒なのは可怪しくないですか?それに……」 僕が考えながら言葉を口にしていると、離れた所から僕を呼ぶ声が聞こえてきた。 「あのぉ、もしかして、フェアル・ネヴィ様ですか〜?」 反射的に顔を上げて声のした方を向くと、制服を着た青年とスーツ姿の男性が、並び立つ別棟の回廊に立ってこちらを見ていた。制服姿の青年は、こちらに向かって大きく手を振っている。 「誰だろう?」 サグとソルを振り返って首を傾げていると、その問にレグラス様が答えてくれた。 「制服を着ている方がバズ・カーナン、生徒会役員の一人。隣に立つのがアルトン・マドル、留学生担当の教諭だ」 そう教えられて彼らに改めて目を向けると、バズ・カーナン様は嬉しそうに更に大きく手を振ってきた。となりのアルトン・マドル教諭もにこにこと微笑んでいて、とても優しそうに見える。 二人の穏やかそうな雰囲気に、僕はほっと安堵の息をついた。 「学院長との顔合わせが終わったから、迎えに来たんだろう。フェアル、ここからは私と別行動になるが、サグとソルは側にいる。何かあれば彼らに言うように」 「はい」 僕はもう一度レグラス様を見上げて、しっかりと頷いた。初めての場所でレグラス様が側にいてくれたのは心強かったけれど、彼はこの場所では講師の立場となる。いち生徒にいつまでもかかずりあっている場合じゃない。 それに僕も、この学院に在籍している間に、将来進むべき道を探そうって決めてるのだ。いつまでもレグラス様に頼ってちゃダメだろう。 それにサグとソルは側にいてくれるんだ、それたけでも十分有り難い。 自分に言い聞かせるように内心で呟くと、向こう側に向かうために渡り廊下を進もうとした。そんな僕の左の腕を、レグラス様が掴んで引き止めてくる。 「レ……レグラス様?」 「フェアル。頑張りすぎるな。もし無理だと感じる事があれば、迷わず私の所へ来い」 僕にそう念を押す形で告げると、レグラス様は掴んでいた僕の腕をそっと離してくれた。ここまで親身になって心配されたことがない僕は、心の中がほわほわと温まるような気持ちになった。 さっきまであった、ほんの僅かな不安もすっかりなくなってしまっている。 僕はにこっと笑って頷くと、今度こそ渡り廊下へと足を進めた。 「初めまして、フェアル・ネヴィ様。ボク、バズ・カーナンと申します。ネヴィ様とは同学年です。どうぞバズってお呼びください」 渡り廊下を進み彼らへと近付くと、バズ様が嬉しそうに顔を綻ばせた。 淡い茶色の髪はくせ毛なのか、くるくるとカールしていてふわふわだ。同じく茶色の瞳には好奇心に溢れて、楽しげに僕を見つめてくる。鼻の周りに薄っすらと浮かぶソバカスが、彼を愛嬌のある顔にしていた。 「こ……こちらこそ、宜しくお願いします。できれば敬語はなしで、フェアルとお呼びいただけると嬉しいです」 どぎまぎする胸を宥めながらソロリと手を差し出すと、バズ様はその手をきゅっと両手で握り締めて、ぶんぶんと振った。 「うわぁ、猫の獣人かぁ!可愛いなぁ!宜しくね、フェアル!」 「バズ、挨拶はそのくらいにして、早くフェアルを中へ入れて上げなさい。じゃないとレグラス様も気が気でないようですよ?」 微笑ましそうに僕らを見守っていたアルトン・マドル先生が、興奮冷めやらぬバズを諌める。 その言葉に、そっと来た道を振り返ってみると、さっきの場所に佇むレグラス様がこちらをじっと見つめていた。 「わわっ!冷酷無残な公爵閣下の大事なヘテロクロミア様に失礼過ぎましたかね!?」 ぱっと手を離して、バズは慌てたように僕を見てアルトン先生を見て、そしてレグラス様を見てアワアワと慌て始める。 そんな彼の手を、今度は僕がきゅっと握り締めてみた。 「あの、全然失礼じゃないです。むしろ気さくに声を掛けて頂いて、僕、嬉しかったです」 にこにこと笑って伝えると、バズはぴたりとその動きを止めた。そしてまじまじと僕を見ると、彼は大きく頷いた。 「笑うフェアルは最高に可愛いから、あんまり笑わない方が学院は平和なのかも」 「え?」 脈絡のないバスの言葉に僕が瞬いていると、横に立つサグとソルがうんうんと頷いた。 「ホント、それ。無自覚に可愛いを垂れ流すから、レグラス様も心配で仕方ないみたいだ」 「そうですねぇ。学院長室でもあまり余裕はなさそうでしたね」 その言葉に、もう一度レグラス様を振り返ってみると、彼は胡乱げに目を細め、腕を組んでこちらをじっと見つめたままだった。

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