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第97話
レグラス様の綺麗なアイスブルーの瞳が、僕の意識を捕らえて離さない。
いつの間に、こんなにも、この人の存在に慣れてしまったんだろう。
慣れた……というより、その姿が視界にはいると、凄く安堵する自分がいる。それが、自分の事ながら凄く不思議なことに感じた。
以前の僕なら、こんな風に自分から誰かに手を伸ばすなんてあり得なかった。
何故って、誰も僕を気にしないから。手を伸ばしても無駄だと分かっていたから……。
ーーでもレグラス様は違う。いつも僕に手を差し伸べてくれる。だから、僕は……。
レグラス様の服の端を掴む自分の手に視線を落とす。
僕の腕一本分だけ離れている、その距離が何だかもどかしく感じられる。僕の視界の端で、尻尾がうずうずと蠢いた。
脳裏に、以前「触れ合いに慣れてもらおうか」と言って、両腕を広げたレグラス様の姿が思い浮かぶ。
――もっとくっつきたい。そうしたら、絶対もっと安心できるし、きっと幸せな気分になると思う……。
「――どうした?」
黙ったままの僕に、レグラス様が声を掛けてきた。身体ごと僕の方へ向くと、モグラを持つ手とは反対の手で僕の頬を包み込む。
その感触に、僕ははっと我に返った。
――あ……危なかった。危うく抱きつくところだった……っ!
そろりと視線を上げて、レグラス様の様子を窺う。しかし彼は僕の考えに気付いた様子はなく、ただ眉を少し潜めて心配そうな眼差しを僕へと向けていた。
「いえ、なんでもありません!」
掴んでいたレグラス様の服を離してしゅっと姿勢を正すと、何故かレグラス様は残念そうな顔になっていた。
「今、精霊様にこの世界の理についてお話を伺っていたんです」
「この世界の理?」
レグラス様が怪訝そうな顔になって、視線をちらりと手元に落とす。
「コイツにか?」
「レグラス様、精霊様が見えているんですか?」
「ああ、ここは精霊の世界だからな。ここでなら可視化も可能だ」
そう言われて僕もモグラに目を向けてみると、彼は僕に向かって小さな首を一生懸命ふりふりと振っていた。
――コワい、コワい。ムリムリ。離して、離して!
その必死な様子が可哀そうになった僕は、少し顔を上げてお願いをしてみた。
「精霊様が怖がっています。離してもらえませんか、レグラス様」
「私の猫を惑わしたんだ。少しは怖い目に遭った方が、コイツも教訓となるだろう」
「でも、精霊様は使徒の事についても教えてくれそうだったんです。それに、えっと……アステルの四大聖獣? というものの存在についても」
「――なに?」
その言葉にレグラス様はすっと目を眇め、掴んでいたモグラを顔の前まで持ち上げた。
「お前、何を知っている」
僅かに怒気を含む冷たい声に、僕もモグラもびくんと身体を竦めてしまった。その僕の反応が視界に入ったのか、レグラス様がはっと顔を上げる。
「っ、フェアル……」
そう呼びかけた瞬間。モグラはもにもにと鼻面を動かすと、ぱっとその姿を消してしまった。
それと同時に、今まで眼下に広がっていた広大な景色も消え去ってしまい、艶やかな飴色の木製の床板へと姿を変える。
「あ……!」
「チッ」
僕の声と、レグラス様の舌打ちが重なった。どこに行ってしまったんだろうと、辺りに視線を彷徨わせていた僕の耳に、モグラの可愛らしい声が小さく響いてきた。
――神様はいつだって使徒様の側にいるよ。
それ以上声が続くことはなく、しんとした静寂が広がるばかりだった。
★☆★☆
レグラス様と共に別館の階段を下りて外に出てみると、扉の前でサグとソルが待ってくれていた。
「フェアル様!」
「フェアル!」
扉の開く音に反応して二人ともぱっと顔を上げる。二人ともその顔色は悪く、眉間にくっきりとシワを寄せていた。
「お怪我はありませんかっ! お一人にしてしまって申し訳ありません!」
「無事でよかった……っ」
口々にそう言ったかと思うと、サグとソル、二人揃って胸に右掌を当てその場に片膝を着いて跪いた。
「「申し訳ありませんでした」」
「え? え?」
僕は突然跪いた二人の頭を見下ろし、そして横に立つレグラス様を振り仰いだ。レグラス様は無表情のまま腕を組み、そんな二人を黙って見下ろしている。
これはもしかして、僕が勝手な行動をしてしまったから二人は怒られてしまうんだろうか?
僕はそっとレグラス様の袖を引き、注意をこちらに向けさせるとそっとお願いを口にしてみた。
「あの、レグラス様。サグとソルは悪くありません。僕が迂闊に行動した結果のことなので、二人を怒らないで……」
レグラス様は視線を僕に向けてじっと見ていたけれど、やがて「はぁ……」息を吐き出すと小さく首を振った。
「精霊の仕業だ、是非もないだろう。そもそも精霊は気に入った対象にしか干渉しない。その段階でフェアルに危険はないはずだ。……が、守るべき対象から僅かでも離れた事はあの二人のミスであり、処罰の対象となる」
厳しいレグラス様の声に、二人の頭は更に深く下がる。
レグラス様は組んでいた腕を解くと、親指の腹で僕の目元を優しく撫でた。
「しかし、お前達への処罰はまた後で下す。今はフェアルを休ませたい。人間が精霊の世界に滞在するには、気力と魔力を著しく消耗するからな」
「「御意のままに」」
こうして留学初日は、学院に半日も滞在しないまま終わりを迎えることになった。
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