8 / 31

第8話 下戸の方向音痴にキスした件

 シンディが来ていた!   直己は思わず身を屈めたが、息子は連れて来ていないようだった。  こっぱは構わず直己を舞台に引っ張り上げるのだった。 「じゃあ、立会人、ドクター喬木! 阿久津先生! よろしく!」  ランディが来たらどうしてくれる? などと怯えながら直己は阿久津と共に、こっぱとシンディの間に立った。 「真柴本城どっちが勝つか! 千代川土手桜まつり名物飲み比べーっ!」  松吉が拍手の中でまた踊りのようなものを一節舞い、 「はーい飲んで飲んで飲んで飲んで! イッキ、イッキ、イッキ真柴! イッキ、イッキ、イッキ本城!」  と扇子を広げて観客を盛り上げる。  医者がアルコールの一気飲みを煽ってどうするのだ。と思いつつ直己は手拍子を打つ。  隣で商工会議所の阿久津はビールのロング缶を次々と並べている。  松吉のよく通る声は川向うまで響いていた。  夕焼けの田園風景の中をよちよち歩いていく人影がある。あの頼りないシルエットは松吉に違いない。  直己が車を寄せてみると、松吉は酔いつぶれたこっぱを背負い、自分のザックは胸に抱き、おまけにこっぱのキャスター付きスーツケースも引いている。  直己は車から降りると、 「乗って」  と強引に松吉のザックやスーツケースを取ってトランクに入れた。 「商工会議所の阿久津は送ってくれなかったのか?」 「いえ。送るとおっしゃってくださいました。でもお忙しそうだったんで、あにさんが自分たちで帰れますって断って……」  松吉は意識を失くしてぐにゃぐにゃのこっぱを苦労して後部座席に座らせていた。 「私は方向音痴なんで、ホントは送っていただきたかったんですが」 「実に見事な方向音痴だ。一体どこに行くつもりだったんだい?」 「……真柴駅か本城駅に」 「このままじゃ真柴山に登るところだぞ」  と直己は車を発進させた。  すっかりうなだれてこっぱの横に座っている松吉はあの大喜利での元気な様子は微塵もない。 「私は下戸で一滴でも吞むと倒れるので、私と一緒の人は代わりに吞んでくれて……それでみんなつぶれちゃうんです。申し訳なくて……」 「体質は仕方ないだろう」 「そうなんですけど、いつも悪くて……」  と松吉はこっぱに腕を絡めている。  放っておくと酔っ払いはぐずぐすと座席から崩れ落ちてしまうからだが、直己は穏やかならぬ気分である。 「こっぱさんは松吉くんとは師匠が違うんだろう?」 「あ、はい。あにさんの師匠は柏家仁平(かしわやにへい)です。私とは違う一門です」 「へえ。でも二人とも、すごく息が合ってたよね」 「そうですね。よくお仕事に呼んでくださるんで。ご一緒することが多いです」 「へええ。ずいぶん仲がいいんだね」 「はい。昨日も急に声を掛けられて。前からわかってたら先生にご連絡したんですけど」 「ふうん。急な呼び出しでも、こっぱさんなら応じるんだ」 「元から決まってた人が風邪ひいたそうなんです。代バネ……代理で来ました」 「ふううん。こっぱさんのためなら何でもやるんだ」  言葉尻がねちねち嫌味になって行くうちに、 「先生」と松吉の声音が変わった。  直己が黙り込むと、 「あそこにペロがいる」  と窓を開けて指さすのだった。  そば屋の雑種犬は畑の用水路で水を飲んでいた。また松吉がその首輪を引いて連れて来た。  そしてペロを後ろのドアから中に入れると、 「あにさん。ちゃんと寝てください」  完全に床にずり落ちているこっぱを引きずり上げた。座席には人間が横たわり、床には犬が横たわっている。 「後ろは一杯だから」  はにかみながら松吉は前のドアを開けて助手席に座った。 「こっぱあにさんはもう結婚してらっしゃいます。二才の娘さんもいます」  と何の脈絡もなく言いながらシートベルトを締めようとする。  が、ベルトを引き出すのに苦労している。 「古い車だから調子が悪いんだ。ちょっとコツがある」  と直己はそれを手伝う。  金沢の兄はベンツに乗っている。母はそれに乗って来る度に、この国産車に文句たらたらである。直己とて外車を購入する余裕はあるのだが、自分には贅沢に思えてならないのだ。    古びたシートベルトを松吉の肩先で引く。完全に身体が覆いかぶさる形になる。真正面に松吉の顔がある。  唇にちょんと口づけしてシートベルトのバックルを固定した。そしてサイドブレーキを外して車を発進させる。    おや?  自分は今何をした?  横目で見ると松吉は「え?」という口の形のまま前を見つめて真っ赤になっている。 「松吉くんは踊りでも習ってるの?」  と尋ねたのは、飲み比べの時の動きが舞踊のように見えたからだ。  まるで今の口づけがなかったかのような口調である。 「あ……いいえ。あれは空手の演舞です」 「空手? 何でまた」 「弦蔵一門では入門したら必ず秋雨亭矢彦師匠の空手道場に通うことになってます」 「へえ。落語家が空手を教えるんだ。その秋雨亭矢彦師匠は、松吉くんのお師匠さんと何の関係が?」 「同期だから仲が良いんです」 「男同士で仲がいいんだ?」  松吉はちろりと直己を見た。 「師匠方は違います。落語家では私ぐらいだと思います」  直己はバックミラーで熟睡している木っぱを見ながら声を潜める。 「ゲイの落語家は珍しい?」  松吉はまた真っ赤になって、 「先生は?」と問い返す。 「どうかな? 二丁目では何人か医者に会ったけど」 「先生、二丁目なんかで遊ぶんですか?」 「なんかって……君こそ行かないの? 二丁目は末廣亭のある三丁目の隣じゃないか」 「前座は遊んでいる暇なんかありません」  車は本城駅のロータリーに入っていた。  車から降りた松吉に、相変わらず正体のない木っぱを背負わせる。 「大丈夫か?一緒に行こうか?」  ザックを胸に抱きスーツケースを引はだから。前座は虫けらなんです。こんなのよくあることです」  そして、その姿でお辞儀をして駅に向かった。ふと振り返り言った。 「先生。一つだけお願いしていいですか?」 「うん?」 「メールやLINEにはお返事をください。電話でもいいけど」 「あ、すまなかった」  はにかんだ顔を見せて松吉は踵を返した。  自分ときたらいい年をして、あんな公道に停めた車の中で何をするやら。  直己は松吉が駅の入り口に消えて行くまでずっと見つめていた。  後ろから来た車にクラクションを鳴らされてやっと車を動かしたのだった。  まだ千代川土手から帰っていないらしい和助の店で犬小屋にペロを繋いで家に戻る。  その道々、誰もいない助手席を眺めては松吉の可愛く「え?」の形をした唇を思い出してにやにやする。 〈今日はお疲れさまでした。無事に帰れたか心配です。ゆっくり休んでください〉  その夜、直己が思いついた文章はこれだけだった。 〈着物がカッコ良かったです〉  と付け加えたが、あまりに小学生じみているので削除した。 〈先生とお話しできてうれしかったです。もっといろいろお話したいです〉  松吉から届いた返信こそが小学生じみていた。  けれど直己には、この上もなく素直で好ましく思えるのだった。  遅れて届いたスタンプは、それは大きなハートマークだった。

ともだちにシェアしよう!