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第9話 お見合いと舌を出して眠る猫の件
5 お見合いと舌を出して眠る猫の件
「千代川土手桜まつりで真柴対本城の飲み比べをされたそうですね」
牧田エステル嬢に言われた。
日曜日に本城町のイタリアンレストランでランチデートをした時である。
エステル嬢はお茶会の時の振袖と打って変わって活動的なパンツスーツ姿だった。直己もスーツを着て来た。
開業医は白衣さえ着ていれば下は何でも問題ないので、ネクタイを締めるのは年に数回あるかないかである。
相手がこの衣装なら次回のデートはもっとカジュアルな服装でもいいかも知れない。
何となくそんな雰囲気の令嬢だった。
「松吉さんて落語家さんが来たそうですけど。あの方向音痴さん?」
「そうそう。飲み比べも落語家さんがしたんですよ」
「へえ。あの人、お酒が強かったのね」
「あ、いや。飲み比べをしたのは、こっぱさんですけど」
と松吉の名前にどぎまぎした直己の曖昧な答えが、その後の真柴本城市における二人の落語家の混同につながるのだが、それはさておき。
「勝ったのは瀬戸内シンディ……本城代表の圧勝でしたね。それでなくても真柴代表のこっぱさんはもうたっぷり飲んでたから」
「真柴の本城のと小さな田舎町で諍って……」
とエステル嬢は薄く笑った。
「私は近いうちに都心に引っ越すつもりなんです」
「そうなんですか」
「親友とルームシェアするつもりです」
「なるほど。一人暮らしより経済的ですよね」
「面白い子なんですよ。だから一緒に住みたいと思って」
エステル嬢は親友の話を延々とするのだった。
間もなく実家から引っ越すつもりとは、つまり結婚する気がないという意味なのか。
ならばデートをする意味もないが、しかしデートをしている間は母親や主婦四人組に縁談を勧められずに済むという利点もある。何だか本末転倒な気もするが。
四月も半ばに入ると、毎年恒例の真柴中学校の健康診断がある。
父が生きていた頃はまだ大学病院に残っていた直己も、それを休んで手伝ったものである。
当時は医院を二日間休診して中学校の検診だけしたが、今は一日も休診すれば充分だった。生徒数もすっかり減っているのだ。
それでも朝からずっと流れ作業のように中学生の身体を診断していると、終わる頃にはぐったり疲れるのだった。
中学校を出ると車を千代川土手に向けた。
日暮れが遅くなったから、まだ明るい中に今こそ桜が満開だった。
風に木々がざわざわ鳴り、桜色の花吹雪が川面に吹きつける様は圧巻である。
花筏に覆われた川面は薄紅色に見える。
川向こうで日野巡査が自転車を止めて男子高校生と話している。男子生徒の制服は本城工業高校のものだった。
「おお先輩。一人でお花見ですか?」
直己に気がつくと巡査は自転車に乗って橋を渡り、こちら岸にやって来た。
「今の確か、今年中学を卒業した水島鋭星でしょう。鋭い星」
巡査はぎょっとしたように直己を見つめた。
「よく知ってますね。いや、煙草を吸っていたから注意したんですけど。先輩は奴とつきあいがあるんですか?」
「つきあいって……別に。校医だし」
「校医をしてると名前まで覚えるんですか」
と日野巡査は驚くが、直己はそれほど大したこととは思っていない。
「三年間検診をするんだから覚えますよ」
「へええ。やっぱ医者は頭いいんですねえ」
「まさか」
巡査は警帽を取ってはたはた顔を仰いでいる。川風がなければ少し蒸す陽気になっている。
「こないだの桜まつりに来た落語家。真柴駅のベンチで寝てた奴なんですってね」
「ああ。そうらしいね」
直己は心が少々くぐもる。まったくもって情報が出回るのが早い。
駅のベンチで寝るのが推奨される行為でないのは確かだが、小さい田舎町で噂が蔓延する速度にもぞっとする。
とはいえ、話題を変えたつもりで、
「そう言えば、日野巡査の奥さんはそろそろおめでたですか?」
などと言ってしまう直己も、駅長から聞いた噂話を広めているわけだが。
「いやまだですよ。女ってのはそんなに子供が欲しいんですかね。勝手に産婦人科クリニックに相談に行ったりして。参りますよ」
「まだ結婚して一年とちょっとでしたよね」
「そうですよ。全く気が早いったら」
世間話と噂話の境目はどこにあるのか。内心首をかしげる直己ではある。
エステル嬢が「真柴の本城のと小さな田舎町で……」と薄く笑っていた気持ちもわからないでもない。
みっちりと張り巡らされた噂の包囲網には用心するに越したことはない。万が一にも自分の性的傾向がばれたらと思うとぞっとする。
その週は火曜も木曜も新宿セントテレジア総合病院に出かけた夜は末廣亭に寄ってみた。
寄席の木造建築の風情には感心したが、次々と登場する落語家は大して面白くもなかった。途中退席しなかったのは、ひたすら松吉の姿を心待ちしていたからである。
もし松吉が居れば、高座返しと呼ばれる座布団をひっくり返す作業や、メクリと呼ばれる名前を書いた紙を変える作業のために、何度も舞台に現れるはずだったが、二日とも顔を見ることはなかった。
それをLINEで伝えると返事が来た。
〈四月の予定は中席は鈴本演芸場、下席が末廣亭です〉
寄席は十日間興行で、一日から十日までを上席、十一日から二十日までを中席、二十一日から三十日までを下席と呼ぶのだった。
ちなみに三十一日がある月は、余一会と称する特別興行をするそうである。
つまり今月寄席で松吉を見るには十一日以降の上野鈴本演芸場、二十一日以降の新宿末廣亭に行けばいいのだ。
少し先の楽しみが出来た。
そしてまた、家にいる時は深夜の散歩に出かけるようになっていた。
「散歩ってこんな時間にどこに行くの?」
と母が尋ねるのも道理で、真柴町で歩くにふさわしい場所といえば千代川土手ぐらいしかない。けれど家から徒歩三十分以上かかる。ただの散歩ではなく本格的ウォーキングになってしまう。
「まあ、コンビニでも行ってくる」
今年になって駅向こうにコンビニエンスストアが出来たのは幸いだった。駅前にはロータリーこそあるが、これといった店はない。
実は直己はまた駅のベンチで松吉が寝ていないか見回りに行っている。
そして案の定。終電も終わり駅舎が閉まる頃に家を出た深夜、駅前ベンチに寝転んでいる人影があった。
喬木医院からなだらかに伸びた坂道の下に駅舎があり、その小さなロータリーの街灯が駅舎前のベンチを照らしている。
大きなザックを枕にして松吉は熟睡していた。
もう路上で寝ても風邪をひく気候ではないが、
「松吉くん。松吉くん。起きなさい」
身体を揺するも松吉は一向に起きる気配がない。かなり強く肩を叩いたところ、ようやく目を覚まして、
「はい、師匠。何でしょう」
と目をこすって起き上がる。思わず笑って、
「師匠じゃない。こんな所で寝てないで家に来なさい」
「はい?」
松吉はまじまじと直己を見て、ふふふと笑った。片頬にえくぼが出来る。熱に浮かされたあの夜と同じ表情である。
「喬木先生だ」
「そう。だから家に……」
にわかに松吉は直己の肩に腕を回して抱き着くと、
「喬木先生だ。先生だ」
うわ言のように繰り返した揚句、唇にキスをした。しっかりと唇を吸われ、のろりと舌が入って来た。
思わず直己も抱き返して舌で応えようとした途端、松吉の動きが止まった。
そして軽い鼾が聞こえて来た。
「おい……こら……」
松吉の身体を揺さぶってみる。だが、もう二度と目を覚ますことはなかった。
人の口に舌を入れたまま寝るな。
舌を出しっぱなしにして眠る猫じゃないんだから。
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