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第11話 かつ丼とレタス炒飯と梯子酒

6 かつ丼とレタス炒飯と梯子酒  自分はそんなに酷い事をしたのだろうか?  直己には自覚がなかった。先に誘ったのは松吉ではないか。たまっているものを抜いてやったのだから感謝して欲しい。とまでは思わないが、それに近い感覚はあった。  松吉が自分を憎からず思っているのは知っていたし、ならばあんなに拒否しなくともよいではないか。と不満に思うばかりである。  だが、松吉の当身は直己の肌に青黒い痣となって残り、湿布をしてもいつまでもじくじく傷んだ。 「先生。はえ、何か心配事でもあるだかね?」  今朝も朝一番でやって来た小柄な清川婆様に顔を覗き込まれ、思わず目を逸らしてしまう。 「何でもないですよ」 と声を出してみれば、我ながら元気がないことがわかる。ちっとも何でもなくない。 「どうしたの、先生。こないだのお花見ではたくさん座布団取ってすごかったのに」  と小太りの豊川婆様。  ドクターストップで花見に来られなかった山川爺様が知りたがるのに、二人は口々に教えるのだった。 「お花見で笑点をやったんだよ。先生が回答者で。面白かったねえ、清川さん」 「座布団運びが、あの玄関掃除をしていた人で……松吉さん? 変な踊りを踊っとったに」  あれは踊りじゃない!  人を倒せる武闘だったのだ!  思わず二人の婆様を睨みつけてしまう。 「若先生。何か怒ってるだか?」 「これから山川さんの診察ですから。清川さんと豊川さんは出て行ってください」  と安田看護師に目配せして二人の婆様を待合室に退出させる。  昼休みに家に戻れば母親が誂えた昼食が待っている。朝炊いたご飯にカツ煮がのっている。 「こんな脂っこいのじゃなく。こないだ清川さんがくれた蕗味噌は?」 「だってカツ丼好きだったじゃない」 「カツ丼が好きなのは兄貴だ」とは言わずに黙ってカツ丼を食べる。  清川婆様手作りの蕗味噌を口直しに甞めるが、そのほろ苦い味に自分の獣じみた行為を責められているような気になるのだった。 「直己さん。こないだの正座の人。五月のお茶会にも呼べないかしら?」  正座の人って何だ⁉ ちゃんと名前を呼べ‼  黙って箸を置くと席を立った。 「ごちそうさまは?」 「ごちそうさま!」  打撲傷はじわじわと痛みが続く。  嫌がる相手に無理強いした。  結局自分がやったことはレイプではないか。最早そう認めざるを得なかった。  直己は素人童貞で、風俗で遊ぶようなセックスしか知らなかった。 「いやだ」と拒否されたとて主導権は金を払ったこちらにある。あえて抗うふりで場を盛り上げるプロもいる。  そんな風俗のお遊びと普通の恋愛は違うのだ。  そう反省してみるのだが、どこかで何か承服し難いものも残った。  嫌がることをされているのはこちらも同じだと。それが何なのかは皆目見当もつかないが。  新宿の病院でも看護師に、 「先生。どこか具合が悪いんですか?」  などと訊かれる。週に二度しか来ないのに顔色がわかるのか。  この際、気がつかなくてもいいことにまで気がつく。  直己の様子を案じるのは赤の他人ばかりである。共に暮らす母親が気にするのはお茶会のことだけである。  まあ、母親にセックスについて案じられても困るわけだが。  病院の帰りに新宿三丁目に寄るも寄席に入る勇気はなかった。そのまま二丁目に足を向け、街のほんの入り口にある〝バーくろかわ〟に入る。 〝バーくろかわ〟はカウンターにボックス席三つの小さなゲイバーだった。  新宿二丁目の入り口にあるから普通のバーと間違えて足を踏み入れる客もいて、ゲイもノンケも受け入れる店になっていた。 「いらっしゃいませ。お久しぶり、先生」  カウンターの中で出迎えたのは白ワイシャツに銀のアームバンドを着けたマスターだった。   その横のキッチンで昇り龍のアロハシャツを着たヤクザじみた男が中華鍋を振るっている。 「ちょうど今レタス炒飯を作ってもらってるところ。先生も召し上がります?」 「ああ。ありがとう」  直己はカウンターでバーボンのロックを飲む。二丁目では一軒の呑み屋だけに入り浸らないようにしている。  何となく顔を覚えられることに抵抗があるのだ。ここも久しぶりに来たから、マスターが直己を馴染みのように迎えるのは単なる営業であろう。  店内にいる客に男がレタス炒飯の皿を配って回っていると、店の電話が鳴った。 「はい。ああ師匠なら今、炒飯を作ってくれて……え?」  ドアが開いてスマホで話している松吉が飛び込んで来た。着物姿だが胸に「松吉」と名札が縫い付けてある。  直己は炒飯を咀嚼しながら思わず首をすくめた。 「師匠! 何でスマホの電源切ってるんですか」  松吉は受話器を握っているマスターに構わず、中華鍋を持っているガタイのいい男を怒鳴りつけた。 「だって、うるさいんだもん」  師匠と呼ばれた男はけろっとして言う。 「若竹(わかたけ)師匠が倒れられました。すぐ代バネにいらしてください」 「えっ! 若竹が倒れたの?」 「酒の吞み過ぎです。若社長が救急病院に連れて行きました。だから弦蔵師匠にトリをと……」 「わかった。すぐ行く。ごめんマスター」  とヤクザいや弦蔵師匠はマスターに中華鍋を渡すと、松吉と共に店を飛び出して行った。  そう言えばあの声は以前電話で話したドスの効いた声ではないか。  音羽亭弦蔵。顔もYouTubeで見ている。着物と私服ではこうもイメージが変わるのか。  感心していると、 「すると今日の末廣亭のトリは弦蔵師匠か」  そそくさと店を出て行く客がある。直己も慌ててそれに従った。  久しぶりにやって来た末廣亭は〝閑古鳥が鳴く〟という形容にふさわしい客入りだった。  新宿の雑踏から昭和初期の木造建築に入ると、そこは静かに提灯がぶら下がった空間で何やら時空間を超越した気になる。  客はまばらにしかいない。これで営業が成り立つのか。田舎の喬木医院だってもう少し客いや患者がいる。と他人事ながら心配になる。  高座では松吉が座布団をひっくり返している。直己はつい頬が緩んでその姿が楽屋に消えるまで見送った。  落語家が出て、漫才師が出て、また落語家が出て……直己は次々と出て来る芸人に笑っている。  以前この寄席に来た時の退屈さとはまるで違う。出演者の顔ぶれによっては、ここまで楽しさが異なるのか。初めての発見だった。とはいえ、笑うと鳩尾の打撲傷に響く。  そして秋雨亭若竹(しゅううていわかたけ)の代演、音羽亭弦蔵。 〝笠碁(かさご)〟という爺様達の友情を描いた噺だった。直己は笑いながら少し涙ぐんでいるのだった。 「どう? うちの師匠はすごいでしょう」と自慢げな松吉の顔が見えるようだった。  寄席がはねて帰ろうとすると、先程「バーくろかわ」にいた客が、 「あっ、師匠! 吞み直しましょう」  と楽屋口に駆けて行く。直己はまたそれに従った。  もちろん目的は師匠ではなく弟子だが。  楽屋口からはアロハシャツを纏った弦蔵師匠に続いて松吉も出て来る。相変わらず大きなザックを背負い、手にしたキャリーケースはルイ・ヴィトンである。おそらく師匠の物だろう。 「おお、あんたも来てくれたのか。すまなかったな。レタス炒飯食べられなかったろう」  と弦蔵師匠は直己にも声をかける。ほんの一瞬しか顔を合せなかったのに覚えているのか。 「吞み直しだ。うまい中華屋があるから行こうぜ!」  真打の落語家は客や弟子達を何人も引き連れて歩いて行く。松吉は直己の存在に気づいているのかいないのか、黙って影のように師匠の後を歩いている。 落語家の梯子酒(はしござけ)はすさまじかった。中華料理屋から始まって、バー、スナック、何故だか原宿まで移動してカラオケそしてまた新宿に引き返して、 「おかえりなさい、師匠」 と白ワイシャツのマスターがいる〝バーくろかわ〟に戻って来たのだった。  

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