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第12話 かつ丼とレタス炒飯と梯子酒
同行者は次第に減って行き、振り出しに戻る頃には五、六人になっていた。
それだけの人数なら当然松吉は直己の存在に気づいているはずだが見向きもしなかった。
「〝笠碁〟を演ったそうですね。聞きたかったな」
と既にマスターは情報を仕入れているようだった。
「おう、松吉。おまえもう終電がなくなるだろう。ほれ、電車賃。帰っていいぞ」
と弦蔵が千円札何枚かを手渡しながら言った。
殆ど同時に誰かが、
「ゲイバー贔屓のホモ師弟か。〝笠碁〟もホモジジイの噺だもんな」
と言った。
「てめえもう一遍言ってみろ!」
たちまち弦蔵はその男の襟首を締め上げた。
「店で暴力はやめてください!」
マスターが言い、
「師匠! やめてください」
松吉が飛びつき、
「誰がホモだ! 言ってみろ! ああ⁉」
と弦蔵が男を店の外に引きずり出す。師匠に取り付いたまま松吉も店を出て行く。
直己はただその場に立ったり座ったりしているだけだった。
意を決して店を飛び出してみると、何故だか松吉が師匠の鳩尾に当身を食らわせているところだった。
……あれか、自分がやられたのは。
騒ぎを起こした張本人は顔を腫らして足元に倒れている。殴ったのが弦蔵なのか松吉なのか定かではない。
「タクシー呼んだから。乗って帰りなさい」
店からマスターが顔を出した。そしてルイ・ヴィトンのスーツケースも差し出す。まるでルーティーンのようである。
松吉は礼を言って弦蔵の肩を担ごうとする。小柄な松吉には荷が重過ぎるだろうと、思わず直己は反対側の肩を貸す。
それでも松吉は直己を見ない。
「師匠! 帰りますよ」
と意識のない弦蔵師匠に話しかけている。
やって来たタクシーの後部座席に直己が先に入って師匠を引っぱり、後から松吉が乗り込んだ。
松吉の指示でタクシーが向かった先は、下町のアパートだった。
木造モルタル二階建てアパートは末廣亭の木造建築を見た後なら何がなし納得できるが〝師匠〟という敬称や、ルイ・ヴィトンのキャリーケースにふさわしいとは思えない。
松吉はタクシーを降りながら器用に師匠を背負った。
直己が「私が……」と担ごうとしたが、ひどく嫌な顔をされる。
大切な宝物であるかのように弦蔵師匠を背中から離すことなく松吉は階段を上って行った。
仕方なく直己はスーツケースや松吉のザックを持って外階段を上がって行く。
2DKの部屋は古びているが整理整頓されているのが救いだった。松吉は慣れた様子で押し入れから布団を出して敷くと、
「師匠! 着替えますよ」
と大鼾をかいている弦蔵のアロハシャツなどを脱がせて、寝間着を着せる。
まるで介護職のように見事に着替えをさせて布団に寝かせた。
「慣れてるな」
思わず感想が口をついて出る。発熱した松吉をバジャマに着替えさせるのに四苦八苦したことを思い出していた。
枕元に水や濡れ手拭いを用意していた松吉は、にわかに棚の目覚まし時計を見て、
「走れば終電に間に合う」
とザックを背負った。
「タクシーで送るよ」
直己は既に疲れ果てていた。今から走って混雑した終電になど乗りたくない。
だが松吉はそれが聞こえないかのように、玄関で直己が靴を履いて出て来るのを待っている。そして合鍵で外からドアを施錠した。
「お手数をおかけして申し訳ありませんでした。私は電車で帰りますので。失礼します」
相変わらず顔は見ないで頭を下げると、駅に向かって走り出した。
仕方なく直己はその後をついて走った。
本城駅行き最終電車のドアが閉まる直前に松吉は車内に飛び込んだ。
息が上がり何歩も遅れていた直己が見ていると、車内に入ったはずの松吉は一歩下がって背中のザックをわざとドアに挟んだ。
閉まりかけたドアがまた開く。
「先生! 早く!」
呼びかけられて最後の猛ダッシュをかける。
松吉に手を引っ張られて車内に入った途端に背後でドアが閉まった。
「駆け込み乗車はおやめください! 他のお客様のご迷惑です!」
苛立たし気な車内アナウンスは明らかに直己に向けたものだった。
三十四才が二十三才と同じに走るなど自殺行為である。直己は本気で床にしゃがみ込んでゼイゼイ喘いでいた。
上から水のペットボトルが差し出された。松吉の大きなザックには衣装以外にもいろいろな物が入っているらしい。
床に腰を落としたまま息が治まると一気に水を飲んだ。
それこそ二十代で真柴から都心の医学部に通っていた頃、実習で夜遅くなると走って終電に飛び乗ったものだった。あの頃はそれがこんなにも大変なことだとは思っていなかった。
今度は上から手が降りて来て腕を掴んだので、それに縋って立ち上がった。電車内の席は満席で、吊革に摑まって立っている乗客も少なくなかった。
生まれたての小鹿のように脚がぷるぷる震えてまともに立っていられない。
手すりに縋って辛うじて立っている直己に松吉が腕を絡めた。木っぱを支えていた時と同様だった。
「いいですよ。肩につかまってください」
「すまない」
直己の顎の高さに松吉の肩がある。丁度縋りやすい位置だった。しかしこのまま黙って触れるのはあまりに……。
「悪かった。この前は、本当にすまなかった」
と頭を下げてから肩に縋った。
松吉はぷいと横を向いた。
「すまなかった。もう二度とあんなことはしない。だから……」
そこまで言って言葉に詰まった。
だから、何なんだ?
これは電車内で言っていいことなのか?
「師匠を殴って破門にならないのかい?」
まるで関係のない質問が口をついて出た。
「弦蔵一門で破門になるのは人を殺した時だけです」
「いや。人殺しって……破門以前に逮捕だろう」
「ちなみに自殺も人殺しなので破門です。意外に落語家はこれが多いそうです」
「落語家が自殺……?」
「せっかくもらった音羽亭の名前で送ってもらえません。自殺はご法度」
「じゃあ、さっきのは師匠に許してもらえるんだ?」
「どうせ朝には忘れてます。兄弟子に習った手だし」
松吉は唇を噛みしめている。師匠ではない別の誰かを殴った朝を思い出したのか。慌てて話題を変えた。
「弦蔵師匠は……そうじゃないのに何故あのバーに?」
音羽亭弦蔵はゲイではないはずなのに何故ゲイバーにいたのか訊いている。あのがっちり体型を好むゲイは多いはずだ。
「マスターが師匠のご贔屓様だからです」
「なるほど」
「師匠は私がそうだとご存知です。入門の時に打ち明けてます」
「え? そんなことまで言わなきゃいけないの」
「別に強制じゃなく……入門動機を話す時、成り行きでそうなっただけです」
「入門動機って?」
ひどく嫌な目で睨まれた。けれど松吉は言葉を継いだ。
「失恋してとても辛かった時、師匠の落語で笑って楽になったんです。だから入門志願しました」
かなり端折った印象の話だったが、失恋となれば成り行きで同性愛に触れるかも知れないと納得する。
「師匠は秘密を守ってくださってます。でも私がそうだと気づく人がいます。何故ばれるんですか?」
今日初めて松吉はまともに直己の顔を見た。思わず目をそらしてしまう。
そして首を傾げた。直己自身、松吉が同性愛者だとすぐに察したわけではない。むしろ松吉自身が匂わせたのだ。
「師匠はいつも私を庇って喧嘩をなさいます。私なんかを弟子にしなければ、あんな騒ぎにならないのに」
「いや、それは違うんじゃ?」
「私はそんなにバレバレで……いやらしいんですか。誘ってるみたいな?」
松吉の目は涙でいっぱいになっている。こんな時なのに何と大きくて美しい瞳なのだと見惚れる。
「先生があんな……あんなことするような……お手軽な奴なんですか私は?」
「いや。私が悪かった。君のせいじゃ……」
という直己の言葉半ばで松吉は頭を下げた。
「失礼します」
拳で両目を拭いながら電車を降りて行った。
寝過ごさなければ下車駅は、こんなに近い場所なのだ。直己は呆然と松吉の後姿を見送った。
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