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第13話 何事も諦めが肝心な件
7 何事も諦めが肝心な件
「起きてください。終点ですよ」
駅員に揺り起こされて目が覚めた。車内には一人の乗客も残っていなかった。
寝ぼけ眼で電車からホームに降り立って気がついた。真柴駅ではない。
一つ先の終点、本城駅だった。仕方なくタクシーで家まで帰った。
詫び状を書いた。失礼極まりない行為を深く詫び、改めて交際してもらえないかと。初めて見た時から惹かれていた。恋人になりたいと。
いつの間にか恋文になっている。それにしては角ばった文章を手書きして、封筒に入れて郵便ポストに投函した。
封筒に貼った切手は紫陽花の絵柄だった。
返事はなかった。
直己は暇な時間に病室の片づけを始めた。父の代に入院加療を止めて以来、不要品や備蓄品を放り込む倉庫になっていた。ここを整理して人が泊まれるようにするつもりだった。
「はえ、また入院を始めるだかね? 先生」
と清川婆様。今朝は昆布と椎茸の佃煮と切り干し大根の煮物を密封容器に入れて持って来ていた。
「いや。そうじゃないけどね。どれ、血圧を測りましょうか」
手を洗って婆様の診察に入る。
このところ夜中の見回りでも松吉を見かけなくなっていた。乗り過ごしがなくなったかと安堵していたら、加藤駅長から意外なことを聞いた。
「あの落語家さん、本城駅で寝ているらしいねえ。ほら、お花見で大酒吞んだ、うちのベンチで寝てた」
この地では完全に松吉とこっぱが混同されている。
しかし本城駅で寝ているということは?
「本城駅行きの最終に乗ることにしたらしいねえ。あっちは駅ビルの通路があるしホームレスも寝ているから。うちより安全かも知れないねえ」
という情報から間もなく、日野巡査が新たな情報をもたらした。
「本城駅で寝ていた落語家が、荷物を盗まれたそうだよ。すぐ見つかったらしいけど。財布だけが抜かれていて……」
「えっ!大丈夫だったのか?」
「大丈夫も何も。財布に入っていたのが二千円だけだって。今時子供だって万札持ってるのに」
情報は続々と入って来る。そのたびに松吉にLINEをするのだが、なしの礫だった。
〈病室に泊まれるようにしました。電車を乗り過ごした時は連絡をください。医院の玄関を開けておくので勝手に入ってください。一人で安心して寝られます。〉
これには間もなく松吉から返信があった。心躍らせて開いてみると、
〈師匠のお宅の近くに引っ越すことにしました。もう先生や真柴駅の皆さんにご迷惑をかけることはないと思います。いろいろありがとうございました〉
断ち切られた。
それが感想だった。
もう直己やこの地の者には一切関わり合いになりたくないのだろう。致し方がない。
一人で二階の自室に寝ていると、闇の中で聞こえた松吉の寝息を思い出す。座敷で布団を並べて、この部屋で上下に分かれて、共に寝た。
他人の寝息を聞きながら眠るのは、とてつもない贅沢なのだ。今更ながら痛感する。
もう一度あのかすかな寝息を、ふふふと笑う寝ぼけ声を聞けないものか。
何故あんなことをしてしまったのか。悔やんでも悔やんでも悔やみきれない。
松吉の顔を見たい。声を聞きたい。
落語専用の月刊情報誌がある。真打や二つ目はそれで毎月のスケジュールがわかるから追っかけは可能である。
だが前座はいつどこに出演するのか、手伝いに出るのかわからない。
〈引っ越しは終わりましたか? 何か手伝うことがあれば何でも言ってください〉
〈新居の住所を教えてください。引っ越し祝いを贈ります〉
〈ゴールデンウィークの予定は決まりましたか。弦蔵師匠の地方公演のお供ですか〉
〈母が五月のお茶会に出席して欲しいと言っています。いかがでしょう。お返事をください〉
メッセージを送り続けた。既読無視が続く。
これでは単なるストーカーではないか。
月末は保険の請求事務で忙しい。母親は医院の仕事に一切関わらない。父の代にいた事務員も辞めている。直己一人でちまちまと点数計算をするのだ。
その作業をありがたいと思ったのは初めてだった。何も考えなくて済む。
松吉から何の反応もないままゴールデンウィークがやって来た。
もう無理だ。
忘れよう。
もう関係ない。
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