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第14話 何事も諦めが肝心な件

 五月の連休には母が金沢の兄の家に泊まりに行く。私立大学医学部の教授である兄は母の自慢である。松吉が見つけた応接室のトロフィーや賞状は全て兄、正樹のものである。  健やかに結婚して一男一女をもうけて兄は、それだけで充分親孝行をしているのだろう。  母は孫達に会うのを楽しみに、山のようなお土産を持って金沢に出かけた。    喬木医院は毎年五月六日まで休診にする。そして直己はこれも毎年、本城町にある医師会の休日診療所に出かけて当番医になる。  どうせやることはないのだ。  仕事でもしていればいい。  だが今年は子供の日だけ休みをとった。  牧田エステル嬢から、またデートの誘いがあったのだ。令嬢とは既に何度かデートを重ねていた。  今回はドライブしたいとのことで本城駅まで迎えに行く。  エステル嬢が女らしい装いだったのはお茶会の振袖だけで、会うたびに服装はカジュアルになって行く。今日は綿シャツにデニムの軽装だった。  直己も似たような恰好で運転して来た。  エステル嬢は助手席に座るなり、 「こちらまでお願いします」  とカーナビを操作した。 「武道館?」 「武道館です」  オウム返しをする令嬢。  いや、それなら電車で行った方が楽なのに。何かコンサートでもあるのか。仕方なく車を首都高速道路に向ける。 「彼女が出るんですよ」 「コンサートに?」  エステル嬢は嬉しそうに微笑むだけで何も答えなかった。 「彼女」とは令嬢の親友である。デートの度にエステル嬢は親友の話をして、何故か直己は松吉のことを話している。  正直エステル嬢とデートを重ねているのは、松吉のことを心置きなく話せる相手だからかも知れない(とはいえ、あの性暴力までは言えないが)。  今回も道すがら松吉が師匠の近所に引っ越したことを話している。 「場所はどこなんですか?」 「聞いてません。教えてくれない」 「どうして。喧嘩でもしたんですか?」 「まあ……喧嘩と言うか。一方的に切られたと言うか。もう、無理ですね」 「諦めるんですか?それでいいんですか?」 「いや。あの……え?」  これまで意識しないで話していたが、この会話は何か変ではないか?  走る密室で男女が一体何を話しているのかと自問する。  沈黙が続いた後、エステル嬢が口を開いた。 「私も今年中には引っ越します」 「ああ。彼女とルームシェアするんですよね」 「同性婚をします」 「はい?」 「正しくは同性パートナーシップ制度ですね。それが出来る区に彼女と引っ越すんです」 「…………」 「ごめんなさい。直己さんと結婚するためにお見合いしたはずなのにね」 「…………」 「電車の中ではこういう話は出来ないから。だから車を出してもらったんです」 「つまり……エステルさんは同性愛者だということですか?」 「はい。そうです」  教室で先生に指名された小学生のように、きっちりと頷く牧田エステル嬢。 「直己さんとデートをしていれば、親にうるさく言われないし。彼女と結婚するまで時間稼ぎが出来ると思って。本当にごめんなさい」 「つまり……私とはデートを続けていてもプロポーズされる心配もないと?」 「直己さんも同性愛者でしょう?」  ここまではっきり問われたのは初めてである。  直己は無意識に、こくりと頷いていた。  二丁目以外で初めて認めた。これでもう後戻りは出来ない。  エステル嬢はくすっと笑った。 「あのお茶会で、直己さんが松吉さんを見る目で、すぐにわかりました。それで、利用させてもらおうと……ごめんなさい」 「何度も謝らなくていいです。私もそこそこ利用させてもらってますから」 「あの、直己さんと結婚は出来ないけれど、これからもお友達でいてもらえると嬉しいです」 「こちらこそ。よろしくお願いします」  というわけで、残りの道中はエステル嬢の同性婚に向けた準備や心意気について散々聞かされたのだった。  同性婚……その手があったかと思わないでもない直己だった。  武道館では空手の選手権が行われていた。  エステル嬢に導かれるまま二階西側客席に行く。 「彼女です」  エステル嬢が指さす先では、五十五㎏級女子の取り組みが行われていた。  小柄な女性が胴着で組み合っている。素早い蹴りが入り、あっという間に相手を倒す。 「あの人?」  と勝った女性を指さすと、エステル嬢は物も言わずに頷いた。  なるほど。直己を見る時と目がまるで違う。キラキラした瞳である。頬は紅潮している。牧田エステル嬢はこんなに美しい女性だったのかと今更見直す。 「今年初めて武道館まで来れたんですよ」  と自慢げである。  直己にはコンサートでしか来たことのない日本武道館である。その時には舞台やアリーナ席になる場所が競技場として本来の使われ方をしていた。  手前が女子競技場、向こう半分が男子競技場のようだった。客席からはそれぞれ戦う選手に対して声援が送られている。  男子競技場から一際通る声が聞こえる。 「師匠―――っ!」 「行けーーーっ!」 「矢彦師匠――っ!」  空手は師匠ではなく師範ではないのか?  と声のする方を見ると、見覚えのある顔が客席にあった。  指先で摘める程に小さくしか見えないのにはっきりわかる。松吉だった。こっぱもいるようだが、それはどうでもいい。  松吉がいる。 「あの、私、あっちの男子競技に……」  と松吉を見つめたまま言う直人に、エステル嬢も恋人を見つめたまま、 「どうぞ」  と上の空で言う。  八角形の西側から東側の客席まで遠い道のりを松吉を見つめたまま歩いて行く。  男子競技場で戦っているのは、落語家の秋雨亭矢彦(しゅううていやひこ)である。  武闘派落語家として名高く、音羽亭弦蔵と仲が良い。弦蔵一門に入門したら必ず矢彦師匠の空手教室に通わねばならないと言っていた。  北側を回り、北東出口付近に近づく頃、松吉が直己に目を留めた。    他の弟子達が競技場を見ている中で、松吉だけが直己が近づいて行くのを凝視している。  ちょっと待て。  松吉のそばに行って何を言うのだ今更。  ここまで近づいただけで充分ではないか。もうエステル嬢の所に戻ろう。  ひるんだ時、松吉も動き始めた。直己に向かって歩いて来る。  来るな。来ても何を言えばいいのかわからない。  直己の足取りが遅くなった。が、逆に松吉は小走りになり、こちらに向かって来る。  来るな。来るな。来るな。 「先生!」  胸に飛び込んで来た。抱き着かれた。 「先生先生先生会いたかった会いたかった」  海で溺れた人が縋りつくような力だった。そして水から上がった人が必死で息継ぎしているような声だった。  抱き締めた。目頭が熱くなった。松吉の五分刈りの髪が頬にちくちく当たる。もっと強く抱きしめて、 「ごめん。すまなかった。ごめんごめん」  と繰り返した。  東側客席では一際大きな歓声が起きた。 「やったーーー!」 「矢彦師匠!」 「勝ったーーー!」  落語家達が、応援客が男女の別なくそれぞれに抱き合っていた。

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