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出勤
午前7時、スマートフォンのアラームがけたたましく鳴り響く。
ソファの前にあるテーブルの上、激しく振動するスマートフォンのホームボタンを押してアラームを止めると、貞は毛布から這い出てすぐにトイレに向かった。
暖房が届かないトイレは肌寒く、身震いしながら用を足す。
──アレはまだ生かしてここに置いておくとして、俺が仕事に行ってる間の用便はどうしよう?ビニール袋かバケツでも置くか…
ベッドで漏らされてはかなわないし、ベランダにフタ付きのバケツがあるから、それを寝室に置くことにした。
逃亡防止のために手足も口も拘束したままにしておく必要がある。
それに加えて、寝室の窓に近づけないようにベッドの脚にロープを括りつけて伸ばし、国彦の足首のロープと結びつけておくことにした。
──それと、廊下のドアの掛け金もかけておくか
この家には、玄関に入ってすぐの廊下の突き当たりに、リビングと寝室を隔てる木製のドアがある。
ペットや幼児が出て行くのを防ぐもので、普段は開きっぱなしにしてあった。
貞はこれを獲物の逃亡防止に使おうと考えて、ホームセンターで購入した掛け金までつけておいたのだ。
寝室のドアチェーンが破られることはないと思うが、念のためここも閉じておくことにした。
貞は重たい気持ちのまま水を流し、トイレを出た。
洗面所に向かって顔を洗うと、次はキッチンに向かい、電気ケトルのスイッチを押す。
朝はコーヒーと決めているので、それを淹れるためのものだ。
その間に寝室に向かう。
「おい、起きてるか?」
ドアチェーンを解いて寝室へ入ると、国彦がもぞもぞと動いて布団から頭を出した。
「足だけは自由にしてやる。トイレ行きたいだろ?」
国彦が無言のまま激しく頷く。
布団をめくって足の拘束を解くと、真っ赤な生々しいロープの跡が、足首にくっきり残っているのを見つけた。
肩を貸してベッドから立ち上がらせ、拘束した手首を掴んでトイレまで誘導すると、国彦はたまりかねたように洋式便座に腰を下ろした。
膀胱に相当な量の尿を溜め込んでいたらしい。
トイレ内が寒いせいで、国彦が放尿したと同時に、気温差で湯気が立ちのぼった。
──コレは座って小便を出すのか
開け放したままのドアから、貞はその様子を見張っていた。
「拭いてやるから、脚を開け。」
国彦は激しく首を振った。
両手は拘束してあるし、それを外せば暴れて逃げる危険性がある。
止むを得ず貞は、国彦の膝頭を掴んで無理矢理に脚を開かせて、トイレットペーパーで股を拭いてやった。
貞が務める会社は従業員数350名前後の精密機器メーカーで、場所はマンションから車で15分程度の距離にあった。
貞は営業部の所属で部長の地位についており、仕事は外回りが主だった。
何時間も机に座り切り、ということはめったにない。
「岩山さあん、おはようございます。」
若い女の部下が媚びるように話しかけてくる。
「うん、おはよう。」
それをやり過ごすようにして、貞は自分のデスクに座った。
9時に出社すると、得意先からの注文データを見てその日のコースを決める。
今日もパソコンの電源をつけ、得意先からのメールのチェックを始めた。
「岩山さーん、良かったらコレどうぞー。」
メールのチェックの途中、女の部下がコーヒーを持ってきた。
歳は30代後半で、夫と子どもがいるくせにいつも貞に色目を使ってくる女だ。
典型的なお局OLというヤツで、気に入らないことがあるとヒステリーを起こし、若い女子社員を怒鳴りつけているところを何度も見たことがある。
艶の無い茶髪にはときどきフケがついていて見苦しいし、厚塗りしたファンデーションはゴムマスクをつけているようで不自然さが目立つ。
他の部下が苦々しい顔をして「アイツ、岩山さんのこと狙ってるらしいです」と言っていたのを思い出した。
──勘弁して欲しい。あんな女で勃起できる亭主の顔が見てみたい
睡眠時間は十分足りていたはずなのに、異常なほどに疲れが残っている。
今日の運転は特に気をつけなければ。
万が一にも事故を起こして、警察の厄介になることは避けたかった。
──ああ寒い!
殺風景な寝室のベッドの中、国彦はひとり震えていた。
着ていた服は全て処分されて、裸にされた上に暖房も切られてしまい、窓からは隙間風が入ってくるせいで、布団1枚では寒さを完全に防げない。
布団から指1本でも出そうものなら、冷気が肌を刺してきて凍えそうになる。
抜け出そうにも手足を縛られ、足首のロープはベッドの脚にくくりつけられているせいでまともに身動きも取れない。
男が出て行った後、国彦は助けを求めて叫んだ。
ガムテープで口を封じられていたが、叫ばずにはいられない。
窓の外から車のエンジン音や人の声、足音なんかが聞こえてくる。
あの窓の向こうでは、たくさんの知らない人が動き回っているのだ。
そのうちの誰かが、自分に気づいて助け出してくれるかもしれない。
わずかな可能性に賭けて、国彦は声を張り上げたが、ガムテープで塞がれた口では声もろくに出なかった。
窓のカーテンも閉められているせいで室内は暗く、寒さに耐えきれない国彦は、布団の中で何度かくしゃみをした。
寒さはもちろんのこと、空腹も辛い。
昨日の昼頃から何も口にしていないから、胃が収縮して痛いくらいだ。
──あったかいものが食べたい…
男は出ていくとき、ベッドのそばにフタの付いたプラスチックのバケツを置き、そこで用を足すようにと言っていた。
髪をきっちり七三に分けて、グレーのスーツにネクタイを締めた姿は、いかにもA市に住んでいそうなエリートビジネスマンといった風体だった。
──いったい、何を目的にこんなことするんだろう?オレを殺して、調理して食べるとか?殺人犯の中には、拷問して、痛がる様子を見て面白がるヤツもいるって聞いたことあるな……
縛られたまま眠ったからか、手首や足がズキズキ痛む。
頭も痛い。
国彦は苦しさを紛らわすために、同居している冬也や、世話になっている職場の人たちのことを考えた。
──今ごろはオレが帰ってこないから、冬也は戸惑っているだろうな。職場の上司の植野 さんは、あの辺はひったくりが多いし、今は寒いだろうから送ってやろうか?と言ってくれてた。遠慮して断ってしまったけれど、聞き入れておけばよかった
国彦に親は無い。
施設で育ち、そこで冬也と兄弟同然に育った。
7歳のときに里親が見つかってからは離ればなれになってしまったから、高校で再会したときは2人して飛び上がって喜んだ。
高校を卒業してからは同じ家に住んで、お互い別々の職場を行き来する毎日を送っている。
安月給で住む家は狭く、生活は楽ではなかったが、勤め先のお菓子工場の人は家族のいない国彦をよく気遣ってくれた。
冬也や職場の人たちの顔を思い出すと、幾筋も涙がこぼれ落ちてくる。
──アイツは今後、オレをどうする気でいるんだろう?職場の先輩の#高田__たかだ__#先輩にも会いたい。先輩の誕生日が近いからプレゼントはもちろん、ご馳走する店も決めていたのにお祝いもできない。オレのことを薄情だと思う?心配してくれるんだろうか?
抵抗し続ければ逆上し、何をされるかわかったものではない。
この先、自分はどうなってしまうのか。
それを考えると不安で仕方ないし、震えはますます強くなった。
国彦はガムテープの下で嗚咽の声を出して、ひたすら念じた。
──冬也、植野さん、高田先輩、みんな!
オレを助けて!早く、迎えに来てくれ!!
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