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隣の家の家族
12時10分。
玄関ドアが開く音が聞こえてきて、国彦は首を上げた。
ひょっとして、誰かが助けに来てくれたのかもしれないと期待して鼓動が弾んだが、寝室のドアを開けたのはあの男だった。
片手にスーパーのビニール袋を下げている。
男が暖房のスイッチを入れて、窓のカーテンを開けると、室内が一気に明るく暖かくなった。
「腹減ってるだろ。カップ麺を出してやるから、今はそれで我慢してくれ。」
ぶっきらぼうな言い様ではあったが、何か食べさせてくれると聞いて、国彦は少しばかりホッとした。
男はクローゼットから折り畳み式のローテーブルを取り出して広げると、それを床に置き、続いてスーパーのビニール袋をその上に置いた。
「手と口は自由にしてやる。でも騒いだら何も食べさせないし、最悪の場合は殺す。いいな?」
国彦は強く頷くと、男が布団をめくり上げて綿ロープを解いた。
「他にも買っといたから、好きに食べろ。ちょっと待ってろよ。」
男はテーブルの上に置いたビニール袋を指差すと、すぐに寝室を出て行った。
ドアの向こうで、カチャカチャガチャガチャとチェーンをかける音がする。
国彦は足を縛られたまま、這うようにしてベッドから下りると、テーブルの前に座った。
目の前に置いてあったビニール袋の中を確認してみると、おにぎりとペットボトルのお茶が入っていた。
空腹に耐えかねて、おにぎりの包装を乱暴に破くと、白米の良い匂いが鼻腔をくすぐり、唾液が口内にあふれた。
貪るようにして食べると、咀嚼しきれていなかったおにぎりが喉に詰まってしまい、あわててお茶で流した。
数分後、出来上がったカップ麺と箸を持って男が寝室に戻ってきた。
「ほら、これも食え。」
「はい……いただきます。」
痺れが残る手でカップ麺と割り箸を受け取ると、フタをめくって一気にすすった。
猫舌なので、普段は息を吹きかけて冷ますのだけど、今はそんなことをする時間さえ惜しかった。
体が芯から温まって、心から美味しいと感じた。
スープも残さず一気に飲み干していく。
「夜は寿司を買ってきてやる。寿司は嫌いか?アレルギーとかは無いか?」
「…無いです。」
国彦はこのとき、初めて男の顔を正面から見た。
女性なら誰もが心奪われそうな、面長気味の端正な顔つきをしている。
黒々と豊かな髪はしっかり七三にセットされ、黒縁眼鏡の向こうの切れ長の目は眉との距離が近い。
鼻は高くて唇は薄く、男が口を真横に開くと、相当手入れされているのであろう並びのいい白い歯が覗けた。
「汗かいたな。帰ったら髪と体をキレイにしてやる。」
男が国彦の髪にそっと触れてきた。
男の言うとおり、汗をかいたし、風呂に入れてないから頭が少しベタベタする。
いきなり体に触れられて悪寒が走ったが、食事をさせてくれたお礼のような気持ちがあって、抵抗はしなかった。
国彦が食事を終えると、男がおにぎりやカップ麺のゴミを全て、寝室のゴミ箱に放り込んでいく。
そうして男は、壁にかかった時計を見て時間を確認すると、すっくと立ち上がって、ネクタイを結び直した。
「なるだけ早く帰ってくる。」
そう言うと、男は慌ただしい様子で部屋を出て行き、国彦はまた口と塞がれ、手と足を拘束された状態で寝室に取り残された。
貞が住むマンションは、住民同士の交流が少ない。
それこそ貞は、何階にどんな人物が住んでいるのか具体的に把握していないし、隣に住む家族がそれぞれ何歳か、どんな仕事に就いているのかさえ知らない。
大手の建設会社が設計施工を請け負っていることもあってか、防音も行き届いているから騒音トラブルとも無縁だ。
国彦を部屋に置いている今は、それが却って好都合だった。
──拘束を解くのは食事中だけにして…風呂はどうしたもんかな
昼食後、国彦のことばかり気にかけていた貞は18時に退社すると、職場近くの回転寿司で2人前の折り詰めを買って、帰宅を急いだ。
──昼に食事させたときは、そこそこに素直だったし、いま拘束を解いても従順でいてくれるだろうか
いつまでもこのまま、とはいかないだろうが、今は大人しく家に居させる方法だけを考えた。
駐車場にミニバンを停めてエレベーターに乗り込むと、1階でエレベーターが止まった。
隣に住む主婦が乗ってきた。
両手に大きなエコバッグを下げていて、エコバッグの口からは菓子パンやら卵やらが見えている。
「あら、こんばんは。」
主婦が会釈してくる。
「こんばんは。」
貞も挨拶を返す。
「今日はどなたか来てるんですか?」
貞が持っていた2人前の寿司の折り詰めを見て、主婦が尋ねてきた。
しまった!と貞は焦った。
誰かが家にいることを教えてしまっているようなものではないか。
貞は平静を装って、「ええ、まあ」と否定とも肯定ともつかない曖昧な相槌を打った。
ドアチェーンをはずして寝室に入ると、口を塞がれたままの国彦がくぐもった声を上げて、こちらに顔を向けた。
何と言っているのかわからないが、自分の帰りを待ちわびていたのが嫌でもわかってしまって、少し申し訳ない気持ちになった。
「寒かっただろ、すぐに夕飯出してやる。」
貞は壁にかけてあるリモコンを取って暖房のスイッチを入れると、国彦の手首を縛っているロープを解いてやった。
「俺はナイフをいつもポケットに入れてるんだ、逃げようなんて考えるなよ。少し待ってろ。」
国彦は何度も頷き、ゆっくり布団から這い出してきた。
貞は寝室のドアチェーンをしっかりかけてからキッチンに向かうと、電気ケトルに水を入れて、スイッチを入れた。
──インスタント味噌汁のストックがあったはずだ。それをアイツに出してやろう
キッチンの物入れからインスタント味噌汁の具を取り出し、食器棚から汁物をよそう器を2つ取り出した。
そのうちに、電気ケトルのランプが点滅する。
「お湯ができた」の合図だ。
味噌汁の具を器に出して、ケトルの湯を注いでいくと、塩と麹の混じった良い匂いが鼻腔をくすぐった。
味噌汁の入った器と箸をトレーに乗せて寝室に向かうと、国彦はローテーブルの上に置かれた寿司折りをジッと見つめていた。
食べ盛りにカップ麺とおにぎり程度の食事では、空腹をもてあましていたのだろう。
──もう少し食料を買っといてやるべきだったか……
後ろめたさを感じつつ、口のガムテープを外してやると、皮膚を引っ張られる痛みに国彦が呻いた。
それを見た貞は、見ていてこっちが辛くなってしまうし、口の拘束もやめてしまおうか、と頭の端で考えた。
「ほら、食べよう。」
折り詰めの包装を解きながら、なるだけ優しい声で促した。
「……いただきます。」
国彦はローテーブルの前で裸のまま正座し、食前の挨拶をしてから折り詰めに箸をつけた。
こんな状況でも行儀作法を崩さない様子に、貞は少し唖然とした。
この様子から見るに、結構に躾の厳しい家庭に育ったのではないか。
だが、どんな家庭なのか聞かないことにした。
せっかく態度が軟化して従順になっているのに、里心がついて抵抗されてはかなわない。
「味噌汁は嫌いなのか?アレルギーでもあるのか?」
国彦が味噌汁に手をつけないのを疑問に感じたので、意を決して尋ねてみた。
思えば、国彦の食の好みについてきちんと聞き出していない。
「後で食べます。オレ、猫舌だから…」
「そうか。」
貞はローテーブルを挟むようにして国彦の向かい側に座り、寿司を口に放り込んだ。
誰かと食事するのはかなり久しぶりのことなので、何を話せばいいのかわからない。
まして国彦ほどに歳の離れた若い男が何を好むかなど、40歳の貞にわかるはずもない。
「お隣りの眼鏡の男の人、お客さん来てるみたい。2人分のお寿司持ってたわよ。」
貞の隣の部屋に住む主婦、津川善子 は夕食の調理中、夫の尊 にエレベーターで会った隣人のことを話した。
「お隣りさん、確か独り者だったはずだろ?ひょっとして彼女でもできたのかねえ。昨日さ、家に入ろうとしたときにあの人と出くわしたんだけど、なーんかすっごくバタバタした様子だったよ。」
「彼女のお迎えかしら?」
「さあ?」
尊が首を傾げた。
「彼女じゃなくて愛人囲ってるんじゃない?何となくそういう雰囲気あるじゃん、あのオッサン。」
20歳の大学生の息子、甲貴 が意地悪く笑った。
「人様のことをそんな風に言うもんじゃないよ。」
尊が息子の肩をピシャリと叩く。
「お隣りさんはイケメンだから僻んでるんでしょ?アンタはモテないもんね?」
善子がニヤニヤと笑う。
「うるさいなあ、確かにそうだよ。父さんと母さんの子どもなんだから、モテるワケないじゃん。」
ふてくされた甲貴が悪態をつく。
「言うようになったなあ、お前も。」
尊は呆れてため息を吐いた。
直接何かされたワケではないが、甲貴は隣に住む男がどうにも好きになれなかった。
母が言う通り、モテない男の僻みかもしれない。
でも、どうしても好きになれないものはなれない。
挨拶すれば必ず返してはくれるがいつも愛想が悪いし、常にシワの寄った眉間は近寄り難い印象を与え、どこか人を見下したような空気を漂わせている。
黒縁眼鏡にきっちりセットされた髪はいかにもエリートビジネスマンといった風体で、どこかお高くとまったカンジが鼻につく。
──きっとあのオッサンは「自分はお前らとは違うんだ」と周囲を見下しているんだ。根拠は無いけど、そんな気がする。それにしても、あんなのと好き好んで付き合う女はどんな女なんだろう?
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