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懊悩
「味噌汁は美味いか?」
「…はい。」
国彦が味噌汁をすすった後、濡れた唇がライトの光を受けて艶めいた。
箸を動かすたびに肉づきの良い胸がわずかに揺れ、柔らかく息づいている。
栗色の乳首、男にしては細い腰、腿の合わせ目に覗く頼りない陰毛。
男の象徴と喉仏が無ければ、幼女のようにさえ感じる体つきだ。
どこか刺激的な眺めに、貞は体が滾ってくるのを感じた。
その衝動に、どうしたことだろう相手は男なのに、と戸惑う気持ちもあった。
「良かったら、デザートを買ってきてやる。何がいい?アイスクリームでもケーキでも、好きなのを言え。」
なるだけ機嫌を取って、大人しくなってもらおうと声をかけてみる。
「ごちそうさま。」
国彦は折り詰めの半分近くを残して箸を置いた。
「どうした?ほとんど残ってるぞ。ここの寿司、あんまり美味くなかったか?」
「ううん、美味しかったです。」
「そうか、お茶を出してやるよ。麦茶と緑茶と紅茶があるぞ。あ、コーヒーがいいか?」
国彦は寂しげに首を振った。
優しい言葉をかけられたことで、却って友人や職場の人たちを思い出すきっかけになったことに、貞は気付いていなかった。
「オレ、家に帰りたい…」
国彦はふっくらした太腿にいったん視線を落としてから、また視線を上げると、まっすぐ貞の顔を見た。
「悪いが、それはできない」
吐き捨てるように放たれた言葉に、国彦はガックリうなだれた。
うなだれた後は貞を恨めしげに見るばかりで、寿司にも味噌汁にも2度と手をつけなかった。
国彦がすっかり黙ってしまったせいで気まずくなった貞は、折り詰めにフタをして味噌汁も下げてしまった。
キッチンの調理スペースに折箱と味噌汁の入った器を置いて、ため息を吐く。
今後の国彦の扱いを考えると、頭が痛かった。
──やっぱり、要望どおりに帰してやろうか……
それも考えたが、一瞬で「やめておこう」という気持ちに切り替わった。
国彦の「誰にも言わない」が本当だったにしても、国彦の家族や友人は黙ったままでいるはずがない。
通報されて、投獄されるのが目に見えている。
1度は殺害して、全て無かったことにしてしまうことも視野に入れた。
しかし、この物騒なアイデアは「そうしたら遺体はどうするのか」という点で断念した。
外に連れ出して殺害し、遺体をその場に置けばあっという間に騒ぎになるだろう。
室内で殺害して遺体を外に運び出すとなれば、隣人と鉢合わせする危険性がある。
室内で殺害して室内で遺体を処理するとしたら、どうやって処理するのか。
過去のバラバラ殺人事件の記事なんかを検索して調べてみると、気分の悪くなるような話が多かったし、異臭や血痕から発覚したパターンも多い。
結局、やはり生かしておいたほうがいいだろう、という判断に着地した。
寝室に向かうと、国彦は部屋の真ん中で放心状態のまま座り込んでいた。
その命の宿らない人形のような様子に、貞は少し後ろめたさを感じた。
何気なく、ふっくら肉が乗った丸い肩に手を置くと、異常なほど冷たい。
やはり暖房をつけていても、裸では寒いのだろう。
「体が冷えてるな、服を貸してやる。サイズは合わないかもしれないが。」
そう言って、貞はクローゼットから黒いVネックのTシャツを引っ張り出した。
今はまだ、風邪を引かせて死なせるわけにもいかない。
「着せてやるから、両手を上げろ。」
言われたとおりバンザイをするように手を上げさせた国彦の細い腕に、ぶかぶかのTシャツの袖を通していく。
ネックラインに頭を通して裾を引っ張ると、うまく着せることができた。
思ったとおりサイズは合わなかった。
袖も裾も余ってしまって、首周りが大きく開いて、平たい胸が覗いている。
「あったかい牛乳でも出してやる。体が温まるし、よく眠れるぞ。」
キッチンで熱した牛乳を持ってきてやると、小さな両手でマグカップを持ち、湯気の立つ牛乳を啜っていた。
さきほど着せた黒いVネックのTシャツは、国彦の肌の白さをより際立たせていた。
Vの谷間から覗く首元や鎖骨、脚の肉づき、余った袖から出した指先。
白と黒の対照が目にまぶしく、貞はこの若い男に妙な色気を感じて生唾を飲んだ。
貞は国彦の片手をそっと握った。
子どものような体格に反して、いかにも労働者の手といった#塩梅__あんばい__#だ。
手のひらや指の腹にも肉がつき、ふにふにと柔らかいが、爪はささくれや逆剥けが目立つ。
関節の節々はわずかに隆起していて、やはりこのあたりは男なのだな、と感じさせてくる。
──頼もしくて、いじらしくて、可愛い手だ
奇妙な愛おしさがこみ上げてきて、その手を撫でさすると、驚いた国彦が手を引っ込めた。
貞の行動原理が理解できないのだろう。
疑わしげな様子でこちらを見ている。
「明日は仕事が休みなんだ。買い物に行ってくるから、欲しいものがあれば言ってくれ。今日はもう、おやすみ。」
そう言って立ち上がり、寝室を出てドアチェーンをかけると、風呂に入った。
──アイツはまださほど汚れてない。でも、いつまでも体を洗わないわけにはいかないな。目隠ししてから風呂に入れるか…
大柄な体をバスタブに沈めながら、貞はずっと考え込んだ。
風呂から出ると、いつも寝巻き代わりにしているスウェットに着替えてソファに寝転がった。
この家にはベッドが1つしかない。
国彦を寝室に閉じ込めている以上、貞はソファで寝るより他ならなかった。
足が肘掛けからはみ出るし、寝心地も悪いが、誤って拐ってきた相手とベッドを共有する気にはなれない。
──アイツをどうにかするまでの我慢だな。さて、明日は何を買おう?アイツの服と食べ物と、あと、何が要る?
ソファに横たわらせた大きな体に、寝室から引きずって持ってきた毛布をかける。
明日の予定を頭に思い浮かべているうち、睡魔に襲われた。
国彦を拐って3日目の土曜日。
駐車場に向かうと、ミニバンのフロントガラスに薄く霜が降りていた。
昨夜から寒波が到来して、冷え込みが一段と激しくなっていたのだ。
国彦の衣類や食料を買いに行くため、貞は車で20分程度の距離にある大手スーパーマーケットに向かうことにした。
近所のスーパーでも良かったが、大荷物になる可能性が高いし、国彦に必要なものを買い揃えるには、車で品数の多い店に行った方がいいだろうと考えた。
逃亡防止のため、ずっと裸で生活させるつもりでいたが、暖房をつけてもまるで震えが止まらない様子を見ると、風邪を引いたり、凍死する危険性も考えられた。
出かける前に国彦の手足をしっかり拘束し、口はガムテープではなくフェイスタオルで猿ぐつわを作って塞ぐことにした。
ガムテープを剥がすとき、皮膚が引っ張られて痛そうな顔をするのを見ていられなくなったからだ。
貞が向かったスーパーは1階に食料品、2階に衣料品と日用品、3階は家電や雑貨品、百円均一の売り場がある。
まずは国彦の服が必要だと考えて、2階に向かうことにした。
男性用衣料品のコーナーを見て回っても、国彦の小柄な体に合いそうな服は見当たらない。
なぜ女物のコートなんか着ていたのか、合点がいった。
──ここのヤツは、どれもアイツには大きいだろうな
具体的なサイズはわからないが、男性サイズの服が合わないのは明確だった。
歩き回っているうちに「XSサイズ」と書かれたコーナーを発見した。
──これなら合うかな?
商品を手に取って、表記されているスリーサイズを確認してみたが、国彦に合うかまでは確信が持てない。
サイズを控えておくべきだったな、と貞は少しばかり後悔した。
女物でも、黒やグレー、ネイビーの暗色系なら、国彦も着れるかもしれない。
そう思って、婦人服コーナーを回ってみる。
婦人服コーナーのディスプレイには、カーキ色のチュニックワンピースを着たマネキンが立っていて、壁にはそれを着た女性モデルのポスターが貼られている。
清楚な印象を与える、黒髪のワンレンボブの女性だ。
──秀美 もこんなカンジのワンピース着てたな…
ふと、別れた妻のことを思い出した。
妻の秀美とは5年前に離婚し、秀美は今どこで何をしているのかわからない。
結婚当時、貞は32歳、秀美は29歳。
同僚の紹介で知り合った女で、物静かでひかえめな態度に惹かれて付き合う形となった。
しかし結婚してしばらく経つと、秀美の態度は日に日に大きくなっていった。
浪費も激しくなり、そのことを指摘すると逆上してきて、口論になることもしばしばだった。
加えて、結婚して2年経った頃合いに得意先の上層部の不祥事が発覚し、メディアで取り上げられるほどの事態が起きた。
その煽りを受けて、貞の会社の株価は著しく下がり、当然給料にも影響する。
収入が下がったことで満足に浪費ができなくなると、秀美は貞に八つ当たりを始めた。
これをきっかけに、貞は離婚を決意した。
妻は自分を財布としか見なしていない。
それを嫌でも実感する出来事だった。
妻に限らず、今まで付き合った女も似たり寄ったりだった。
最初のうちは大人しくひかえめだが、次第にわがままになり、貞の金で浪費し始める。
最初は貞の優しさを素直に喜ぶだけだったのが、「自分は国立大卒で大手企業勤務、女性受けの良い見た目をした男と付き合っている」という事実に価値を見いだし、酔い出してくるのだろう。
みんな貞から迫って付き合ったものだから、尚更だ。
貞が優しく振る舞えば振る舞うほど、女たちは日を追うごとに傲慢になっていく。
その繰り返しに疲れた貞の中に、いつしか「女を対等に扱ってはいけない」という価値観が芽生えるようになった。
気に入った女は無理矢理にでも組み敷いて、「俺の方が上だ」と知らしめるくらいがちょうどいい。
優しく丁重に扱えば、あっという間にいいように使われるだけだ。
──ああ、嫌なこと思い出した。秀美なら、きっと大丈夫だ。アイツは美人だし、人当たりもいいから新しい男でも見つけて楽しくやってるさ
少し気分が落ち込んだ貞は、男性用XSサイズの長袖シャツと女性サイズの長袖シャツをそれぞれ1枚ずつ買い物カゴに放り込んだ。
下着もいるな、と考えて男性下着コーナーを歩いていると、国彦が履いていたのと同じ型のものを見つけたので、それもカゴに入れた。
あの小さな足が冷えたりしないよう、靴下も買っておく。
──女は抱いてやればいいけど、国彦は?
女みたいなナリしてるけど、あの子は男の子だ。どう扱うのが妥当なんだ?仕事以外であれほど若い男の子と関わったことがないから、わからないな…
衣類の買い物を終えた貞は、寝室で食事していた国彦の力無い様子を思い出していた。
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