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検問
──服は買ったから、次は食べ物だな
衣類がたくさん入った袋を下げたまま、1階の食料品売り場に向かう。
自炊を始めて数年になるから、料理はそれほど億劫ではない。
煮るか焼くかの簡単なレパートリーしか無いが、新米の主婦よりはマシな方だと思うし、カートを押してスーパーの商品を物色しながら歩くのは楽しい。
──今日は肉を焼いてやるか。若い子には動物性タンパク質も必要だ
自分が若い頃、腹に少しでも空きがあれば肉ばかり食べていたのを思い出した。
肉が並んだ商品棚から牛ロースが300グラム入ったパックを取ってカゴに入れ、次は野菜売り場に行き、付け合わせに使うブロッコリーをカゴに放り込む。
──次は汁物だな。あのくらいの年齢の子は、洋食のほうがいいだろう
コーンスープの素をカゴに放り込み、次は何を買おうかと歩き回ると、カレールーが並んだ棚に目が止まった。
辛口と甘口のルーを見比べてみるが、国彦の好みがわからないので両方をカゴに入れた。
明日はこれを食べさせてやることに決めて、カレー用の肉を買うためにまた食肉コーナーに戻った。
──カレーを食べるなら福神漬けも要るな。卵も入れてやる方がいいか?
他には買うものはないか、としばらくスーパー内をうろついていると、惣菜売り場に並べられたサラダが目についた。
──これだけじゃ野菜が足りない気がする。一応、買っておいた方がいいか。
惣菜売り場に並んでいたポテトサラダを手に取り、カゴに入れた。
貞はこのとき、惣菜のポテトサラダを買った主婦が知らない男から「母親ならポテトサラダぐらい作ったらどうだ」なとど言われた話を思い出した。
──親というのは大変だな。特に母親は
貞はそのエピソードを他人事のように感じていたし、元妻のこともすっかり忘れていた。
しかし、国彦に何を食べさせてやろうかと考えているうちは、父性愛と恋愛感情が入り混った気持ちが確かにあったことに、本人は気がついていなかった。
肌を突き刺すように寒い部屋の中、国彦はひとり震えていた。
空腹感はまだあったが、布団の中に潜り込むことを許され、凍える危険が無いことだけは素直にありがたいと思った。
ハア、と鼻から吐いた息が白い。
あの男が暖房を切っていったからだ。
タオルで作った猿ぐつわで口を塞がれてしまったせいで、鼻でしか呼吸ができなくてしんどい。
せめて暖房ぐらいつけておいて欲しかった。
なんだってこんな嫌がらせじみたマネをするのか。
ベッドのそばには例の如く、用を足すためのバケツが置かれていた。
さきほどから尿意を催しているが、さすがにこんなところに排尿するのは抵抗がある。
──昼には戻ってくると言っていたし、もう少し我慢しよう
国彦は縛られたまま布団の中で体を丸めた。
長時間、同じかたちに縛られているものだから、肩や足に鈍痛を感じる。
足を縛るロープが犬のリードのようにベッドの脚に括りつけられているせいで、まともに動けやしない。
姿勢を変えようと身動ぎすると、どこからか小さな音がした。
窓からではない。
ベッドヘッドがくっついた壁の方からだ。
寒さに震えながら芋虫のように這って布団から出ると、壁に耳をつけた。
パタン、カタンという音と、人間の足音も聞こえた。
──これは何の音だろう?でも、壁の向こうに人がいるのは確かだ。
国彦は体勢を変え、両足の裏を叩きつけるようにして、思い切り壁を蹴った。
数回叩いてみたが、向こうの音は止まない。
おそらく、こちらには気づいていないのだろう。
もっと強く蹴ってみたが、結果は同じだった。
向こうが音に気づいたら、訝しんで何か反応してくれるかもしれない。
苦情を言いにこちらに向かうぐらいはするかもしれない。
そのときに異変に気づいてくれるかもしれない。
そう思って叫ぼうにも、塞がれた口では声が出せない。
もっと大きな音を出すためには、と考えて部屋中を見回すと、ベッドのそばにあるバケツに目が止まった。
──これだ!
国彦は足を伸ばして、硬い壁に向かってバケツを思い切り蹴り飛ばした。
バケツはちょうど窓の真下の壁に当たって、カーン!と大きな音を立てて床に落ちた。
壁の向こうからの物音がパタリと止んだ。
気づいてくれたのかもしれない、と思ったが、その期待は見事にはずれた。
何の物音もしなくなって、しばらく待っても何も起きなかった。
もう一度バケツを蹴ろうと思ったが、バケツはもう届かない距離にまで転がっていってしまった。
足の裏がひりひり痛い。
冷気がナイフのように肌を刺し、体が芯まで冷え切って限界に達した国彦は、泣く泣く布団に潜り込んだ。
「お急ぎのところ、申し訳ございません。」
「いえ、大丈夫ですよ。」
「免許証を確認させてください。」
「わかりました。」
自宅まであと100メートル、というところで何台もの車が渋滞していた。
ミニバンをのろのろと進めていくと、前方の道路の両脇に警官が立ち並び、検問がしかれている。
普段なら、ああ面倒だ、と内心ため息を吐くところだが、今は知られたくない事情があるからか、つい必要以上にていねいな受け答えをしてしまった。
「これからどちらへ向かわれますか?」
無線機を片手に持った警官がかがみ込み、窓の内側にいる貞と目線を合わせてくる。
「買い物が終わったので、家に帰るところです。」
「後部座席とトランクを確認させていただけませんか?」
「どうぞ、食料品くらいしかありませんが。」
言われた通りにトランクを開けると、隣に立った警官が後ろに回った。
無線機を持った方の警官は、車内をジロジロと覗き込んでいる。
怪しまれるようなことでもあるのかと、不安が芽生えてきた。
「えーと…何かあったんですか?」
「さきほど盗難事件が発生しまして、ドライバーのみなさんにご協力を願っています。」
「そうですか。」
後ろでガサゴソと大きな音がして振り返ると、警官がスーパーの袋を漁っていた。
──ああ、しまった!
さきほど食料品だけと申告したが、国彦のために買った服が入っているものもある。
明らかにサイズの合わない新品の服が入っていたら、怪しまれるのではないか。
家族のものだと言えば済むことだが、警官に見られただけでも気分が悪い。
何が盗まれたのかわからないが、警官はかなり入念に調べている様子だった。
車内に上半身を突っ込ませて、後部座席の足元まで見ている。
見えやすいようにポケットからペンライトを取り出したり、シートを動かして確認するほどの徹底ぶりだ。
「現金強盗なんですか?銀行が襲われたとか?」
貞は戸惑いつつ尋ねた。
「小さいものなので、細かくチェックしてます。勝手にシートを動かしてすみませんね。」
まるで答えになっていない返事だった。
「いえ…結構ですよ、それは。」
貞はごくりと生唾を飲んだ。
小さいものでこれだけ検問がしかれるものといったら、宝石や貴金属、高価な腕時計だろう。
被害額が大きいのか、ケガ人か死者でも出たのか、無線機から流れ出る大きな声はなかなか止まらない。
──この警官、なんだって俺の顔をジロジロ見てるんだ?俺の顔が犯人と似てるのか?
警官はなかなか免許証を返さない。
不安と不快がどんどん大きくなっていき、限界を感じ始めた頃合いに、バタンッとトランクのドアを閉める音が聞こえた。
「はい、結構ですよ。行ってください。」
トランクと後部座席を調べていた警官が戻ってきた。
「行っていいんですね?」
「はい、大丈夫ですよ。」
無線機を持った警官が、無愛想な態度で免許証を返した。
ミニバンを発進させながら、額の汗を拭う。
ほんの数分の間に、相当な量の汗をかいた。
何とも思っていないようなフリをしていても、肉体の反応は正直だった。
──あの警官は、俺が大汗かいてるのを見て怪しんだのか?
職業柄、直感的に犯罪の匂いを嗅ぎ取ったのかもしれない。
──クソッ!今日はツイてない!!
車のナンバーを控えられた可能性もあると思うと、心穏やかではいられない。
バックミラーで後方を確認すると、警官たちが後続車に同様の対応をしているのが見えた。
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