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第9話 その温もり

◆◇◆  あれは二年くらい前の夏。講義が午後からの日で、蒸し暑い中、俺は駅で電車を待っていた。ただでさえ猛暑の、しかも気温も日差しも強くなる時間帯だ。ホームにはほとんど人なんていなくて、スカスカの空間を湿度の高い熱風が次々と吹き抜けていた。  俺は駅に着いたばかりで、もう既に頭から水をかぶったように汗をかいていた。それでも体は熱を発散しきれていなくて、さらに逃がそうとしている。 『あーやばい、何か飲まないと死にそうだ』  そう独言でしまうほどに頭がぼーっとしていた。水を持ってはいたけれど、もうそれでは追いつかないだろうと思い、経口補水液を買うために売店の前に立った。 『あれ……あの人なんか変じゃないか?』  半分日陰になっているベンチに、項垂れて座っている人がいるのが見えた。かなり疲れた様子で、両手が完全に脱力していた。このあたりには、朝方まで働いて、ボロボロになっているサラリーマンが結構いる。 ——ブラック企業のリーマンかな。本当、多いよな、ここ。  ここはそういう企業が多いらしく、フラフラしながら朝のラッシュに揉まれるサラリーマンの姿を、見かけることがよくある。酷い場合は、それが何日も続いた挙句、そのうち見かけなくなることもある。 ——この力が、知らない人も、遠くから少しだけでも癒せたらいいのにな。  そんな風に思わずにはいられないほど、毎日疲労困憊の社会人を見ていた。 『わ、すごい綺麗な髪』  そんな見慣れた光景でも、俺はその人の姿に目を奪われた。それは、その人の髪が、見事な銀髪だったからだ。半分は陰になってグレーっぽくて、残りの半分が日に当たって、プラチナブロンドの波が、キラキラと輝いていた。  ただ、本人はぐったりしていて、見るからに辛そうだった。売店のおばちゃんからペットボトルを受け取りながらも、その人のことがどうしても気になって、じっと見てしまう。  よく見ると肩で息をしていて、俺と同じように、大雨に降られた後のような量の汗をかいていた。ほんの少ししか見えないけれど、顔色も悪いように感じる。 ——でもなあ。もしそれが普通だと言われたら失礼だしな……。  そんな風に少し悩みはしたけれどけれど、どうしても気になって、思い切って声をかけた。 『あの……大丈夫ですか?』  俺が、少し遠く離れた位置から声をかけた時だった。その人は力のない視線をなんとか俺の方へと移し、僅かに微笑んだ。 『すごい! 目が金色だ……!』  その綺麗な金色の瞳に驚いていると、彼はそのままぐらりと倒れ込んでしまった。最近作り替えられたベンチは木製に変わっていて、見た目や風合いは優しくなっていた。  でも、硬いものであることに変わりはない。その勢いで倒れると、確実に怪我をするだろうという速度で、その人は頽れていった。 『あ、危ない!』  俺は、彼の頭を守るために、咄嗟にベンチの方へと走った。そして、間一髪でその頭がベンチに衝突するのを防いだ。 『あーびっくりした。お兄さん、大丈夫ですか? あれ……、顔色がめちゃくちゃ悪いですよ!』  いくら話しかけても反応しないけれど、体の熱さと顔色から熱中症の症状が出ているように見えた。俺は駅員さんに声を駆け、救急車を呼んでもらった。 『ねえ、これあげるから飲んでください。飲めますか?』  そう声をかけながら、冷たいペットボトルの蓋を回した。ただ、そのお兄さんは自分の力で飲むことが出来なかった。いくら飲ませようとしても、口からこぼれてしまう。  しばらく悩んだけれど、周りには誰もいないし、緊急事態だった。俺は誰かの役に立ちたくて、ハーモニアスとして活動をし始めた直後でもあった。その時高まっていたボランティア精神が、羞恥心を上回ってくれたことで、口移しでそれを飲ませることが出来た。  でも、救急車が到着した後は、どうしても外せない授業があって、駅員さんに任せてそのまま俺は電車に乗った。電車が駅から遠ざかる時に、お兄さんを置いて行くことに酷く胸が傷んだ。  その痛みが、ずっと忘れられなかった。 ◆ 「じゃあ、あのプログラマーの、二徹して駅で熱中症で倒れてた、あのお兄さん……颯紀(さつき)くんだったってこと?」  俺が見つけた時には唇が渇きかけていて、かなり危険な状態だった。そうでなければ、知らない人にいきなり口移しなんて、出来るわけがない。 「あの時、唇を濡らしてくれて、俺にこれを飲ませてくれましたよね? 少し回復したら、今度は俺がパニック起こしちゃって。それをずっと、優しく宥めてくれた……」 「そうだったね。あの時……」  死ぬかもしれないと思ったんだろう。少し回復して話せるようになった颯紀くんは、今度は急に恐怖に呑まれ、大きな声で泣き叫び始めた。その時、俺は颯紀くんを宥めるために、ハーモニアスの力を使った。  命の危機を救ってくれた人が、優しい言葉を届けてくれれば、それだけでするりとその人の心へ入ることが出来る。犯罪で利用されることのある手口だ。そういうのを、俺はあのうるさい母から禁止されている。  ただし、この時はその手を利用してでも颯紀くんを止める必要があった。俺一人じゃ、自分よりも大きな男性のパニックを、力づくで止めることなど不可能に近い。今は仕方がないと自分に言い聞かせながら、颯紀くんを宥め続けた。 『大丈夫。もう大丈夫だから。今はちょっと休みましょう』  そう言って、颯紀くんの心にダイヤルを合わせていった。 『カチカチカチ……』 「それでようやく落ち着いて、二徹した話をしたんですよね。寝不足で炎天下を走ったから、急に具合悪くなったって」 「うん。二徹なんて俺には信じられないから、すごく驚いた。それだけでもきついはずなのに、駅まで走ったって言ってて、余計に驚いたけど」  そう答えた俺に、颯紀くんが柔らかく微笑んだ。そして、俺の手をとり、その指先を見つめて、愛おしそうに口づけた。 「この手で背中を撫でられた時、すごく幸せだと思いました。あの時、俺めちゃくちゃ疲れ切ってて。あのまま死んでも、もう今の状況から逃れられて、楽になれるなら……それもいいのかなって思うくらいに擦り切れてました。それが、この手の温もりを感じただけで、すごく幸せな気分になっていって……。バカみたいに思うかもしれないけれど、俺、その時からずっと好きだったんです」  自分が好きだと思った人が、自分のことを好きだと言っている。しかも、自分が好きになるより、ずっと前からそうだと。まさか、そんなことが起こるだなんて。ずっと好かれていたなんて。 ——さっきまで振られるつもりでいたのに……。  驚いて何も言えなくなっていた俺に、颯紀くんは深々と頭を下げた。 「ごめんなさい。こんなやり方、ダメだとは思ったんです。でも、どうしても」  そう言って、俺をぎゅっと抱きしめた。 「公音さんに、思い出して欲しかったんです。あの日、俺たちが出会っていたこと。なんか……運命っぽい感じがしたから。こんな風にまた会えるなんて、普通考えられないでしょう?」  そう言って、もう一度力を込めながら、小さく被りを振った。何かを振り払うようにして、一生懸命に言葉を選んで、思いの丈を伝えようとしてくれている。  颯紀くんは、軽く息を吸い込むと、それを「はあああああ」と言葉と一緒に吐き出した。 「どうしても、このチャンスを逃したく無かったんです」  そう言って、俺の肩に額を預けた。そして、そのまま小さく「ごめんなさい」と呟いた。その姿は、まるで叱られた小さな子供のようだった。俺より背が高くて、がっしりしているのに、母親にごめんなさいと言い続ける幼子のようだった。 「思い出したよ?」  目の前で揺れる綺麗な髪を、手で梳いてみた。サラサラと流れていく銀髪を眺めながら、響也先輩から聞いていた颯紀くんの人となりを思い出していた。  美しい銀髪、鷹のような金色の瞳。それを囲む長いまつ毛。スラッと背が高く、美丈夫。柔らかく丸くて、よく響く声。会社でも仕事が丁寧で速いと評判で、人にも好かれやすいらしい。  ただ、小さい頃から同性しか好きになれなかったことを揶揄われ、小さい頃には酷いいじめにもあっていたらしい。それが影響しているのか、酷く自信がない。人とのコミュニケーションで、深く踏み込む必要が出てくると、すぐに逃げ出してしまうのが、唯一の欠点だ。  その颯紀くんが、俺を好きだからと、近づこうと努力してくれたんだ。 ——ちょっと気に食わないけれど……。 「颯紀くんが誰なのかを思い出したし、騙されたとわかっても、まだ颯紀くんが好きだけど。どうしたらいい?」  その言葉に、金色の瞳がこちらを向いた。きらりと光を纏って、でも視線は怯えたままだ。あんな大胆な芝居を仕掛けておいて、ここまで怯えるなんて……呆れた俺は、颯紀くんの両頬を指で摘んで捻った。 「ふぁっ!?」  その力を強めて、ぎゅうぎゅうとつねりあげた。 「あんだけのことをしといて、今更ビビったりしないでよ。ほらほら、両思いだって。愛情表現してくれませんか?」  そう言いながら、優しく鼻をすり寄せた。  それで、ようやく俺の言いたいことを理解したらしい。ずっと涙を堪えて潤み続けている目で俺を見ると、両手を優しく握り締めてくれた。そっと指を絡ませて握り込み、隙間が埋まるほどに近づいてきた。 「公音さん、俺の恋人になって」  そして、「いいよ」と答える間もくれず、恋人としての初めてのキスをくれた。  そのキスは、あの日と同じ、甘酸っぱい味がした。

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