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第28話 昔の記憶

 都会の片隅に小さく広がるハーブ畑の中に、こじんまりとしたカフェがあった。  白い壁に少し煤けた赤い扉。開くと透き通るような呼び鈴が鳴る。 「あら、紗月ちゃん、いらっしゃい。また来てくれたのね」  緩いウェーブの掛かった長い髪を後ろで束ねて、英里が振り返る。 「重ちゃんと桜ちゃん、もう来てるわよ。奥の席、座って」  さして広くない店の奥には四人掛けのテーブルがある。  視線を向けると、重田が手を上げている。頬杖をついた桜谷がにっこりと笑っている。 「いつものフレンドでいいのかしら? 新しいの、試してみる?」  自家製のハーブを調合して作る英里のハーブティは、紗月のお気に入りだ。 「じゃ、いつもの準備するわね」  笑顔で去っていく英里の後姿を重田が名残惜しそうに眺めている。 「何時になったら思いを伝えるんだい? もう充分、時は満ちていると思うけど?」  桜谷に小突かれて、重田が顔を赤くした。 「他人のこと、言えるのか? 桜ちゃんはいつ結婚するんだよ、故郷の想い人と」  桜谷には地元に想い人がいるらしい。 「生まれた時から好きだ」と告白して、ドン引きされたと聞いた。確かに引くなと思う。 「僕はいつでもいいんだよ。許嫁だから、逃げられることもない」 「いいや、本当に嫌だったら、逃げるぞ」  重田に視線で同意を求められ、頷く。 「嫌われてはいないはずなんだけどなぁ」  そうぼやく桜谷の気持ちがいまいち理解できない。  いずれは13課にやってくる惟神の女の子らしいから、会ってみたいと思う。 「それより、さっちゃんは、どうなんだい? 僕や重ちゃんよりさっちゃんが一番、想いの成就が早いと思うんだけどね」  桜谷にニヤリとされて、ドキリとする。 「そうそう。教育係で毎日のように一緒だろ。清人もまんざらじゃないと思うんだけどな」  藤埜清人、昨年から教育係として面倒をみている。  まだ高校生だが、筋がいい。神気にも似た霊力量は紗月に匹敵する多さだ。器用で覚えも良いから、教え甲斐もある。  何より、顔が良い。可愛いから、毎日見ていると眼福だ。 「若すぎるよ。私、犯罪者にはなりたくない」  二人が同時に吹き出した。 「たったの四歳差だろ。成人したら大した差じゃないさ」 「よし、じゃぁ、勝負をしようか。誰が一番最初に想い人に気持ちを告げるか。もしくは成就させるか、でもいいな」  桜谷がとんでもないことを言い出した。 「桜ちゃんはもう告白して、しかもドン引きされてるから、成就の方がいいんじゃないの?」  紗月の言葉に桜谷がニンマリと笑む。  我が意を得たりといった顔だ。 「それは乗るって意思表示と捉えていいのかな?」 「乗っておきなよ、さっちゃん。これは、さっちゃんのための勝負だよ。なんたって、一番に叶いそうなのは、さっちゃんなんだから」  重田の言葉には物申したいと思った。  四つも年下の男の子と、うまくいくとは思えない。 「ほら、噂をすれば、だ」  桜谷が窓の外を眺める。  チリリーン……と、扉が開く呼び鈴が鳴った。 「こんちゃー」  いつもの軽い調子で、清人が顔を覗かせた。  奥の席に三人を見付けて、ぺこりと頭を下げる。 「清人、こっちにおいで」  桜谷に手招きされて、おずおずと空いている紗月の隣の席に座る。 「ども」  ぺこりと頭を下げられて、つられてお辞儀する。  その様子を重田と桜谷が微笑ましく見守っている。どうにも、こそばゆい。 「学ランて、かわいいわねぇ。はい、サービス」  紅茶のシフォンケーキにたっぷりの生クリームが載った皿が清人の前に置かれる。  それをキラキラした瞳で眺める。 「清人君、紗月ちゃんに一口、あげてね」 「じゃぁコレ、霧咲さんにあげますよ」  皿ごと渡そうとする清人の手を、英里がむんずと摑まえる。 「ダメよぉ。一口フォークで掬って、あーん、てね?」  優しく指導されて、清人が顔を赤くしている。 「へぇ、藤埜は案外、初心なんだねぇ。女の子とデートとか、しないのかい?」 「いや、彼女いないんで」  シフォンケーキを切り分けて、生クリームをのせながら、清人が答える。 「いないのか。好きな人は?」  桜谷の質問に、びくりと手を震わせる。  黙ったままフォークにシフォンケーキの欠片を刺して、プルプルと紗月の口に持っていく。 「はい、どーぞ」  清人があまりに照れるので、紗月の動きまでカクカクする。  ゆっくりと口を開ける。 「好きな人、いないの? 清人」  圧を感じる桜谷の声に、清人の手が震えた。  フォークから落ちそうになるケーキを慌てて食む。同時に清人の指が紗月の唇を抑えていた。 「え? あ! すみません。慌ててたんで、咄嗟に」  清人があまりに慌てるので、紗月まで恥ずかしくなる。 「はは。清人、動揺し過ぎだよ。でもさっちゃんにとっては、良かったね」  楽しそうに笑う桜谷を、清人と同時に睨んだ。  清人と桜谷は親戚らしく、顔馴染ゆえに気を遣うところがあるらしい。  しかし、今はツンとして顔を逸らしている。こういうところはまだまだ高校生だなと思う。 「やっぱり、さっちゃんが一番、成就に近そうだね」  重田がおかしそうに笑う。 「楽しそうねぇ、何のお話?」  ハーブティを運んできた英里がニコニコと重田に笑いかける。 「誰が一番最初に幸せになれるかの、勝負の話だよ」  英里に話しかけられた重田は嬉しそうだ。 「あら、それならきっと、私が一番だわ。だって、待っているだけだもの」  ハーブティをセットすると、英里はまた戻っていった。  重田が英里の後姿を呆然と眺めている。 「英里さんには誰も勝てない気がするね」  紗月の言葉に桜谷が頷いた。 「一番は重ちゃんか。さっちゃんは二番目だね」  桜谷が呟いた。 「なんで自分じゃないのよ。何気に桜ちゃんが一番近い所にいるのに」 「僕はゆっくりと時間をかけて落としたいタイプなんだ」  得意げに顎を上げて、ハーブティを含む。 「ま、頑張りたまえよ、清人」  突然、話を振られて、清人がケーキを口に突っ込んだ。  いつもの仕事帰りの、ありきたりな午後。ありきたりな会話。  一緒にいるのが当然だった時間。  ただの日常だった。 「……何年前の話だっつーの」  最近ようやく見慣れ始めた天井に向かって、悪態を吐く。  どうも、ここのところ夢見が悪い。  すべては陽人からメッセージを受け取ってからだ。  この地下十三階にも慣れてきたが、いい加減、自分の家が恋しい。 「あの頃は、楽しかったな」  ぽそりと呟いて、自分の声がいつもより低いことに気が付いた。  胸周りから足先まで、果ては股間まで確認する。 「そっか。周期が来たか」  むくりと起き上がって、紗月はのっそりと部屋を出た。

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