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第35話 祓戸大神直日神

 目を閉じているのか、開いているのかも、わからない。  辺りは真っ暗で、全身が浮遊感に包まれている。現実の世界ではないのだろうと思った。 (前にも来たことがある。同じならここは、自分の中だ)  ふわり、と映像が浮かぶ。自分の記憶だとわかった。  子供の頃の自分が見ていた景色。集落の大人たちに囲まれて、遠くで遊ぶ同じくらいの年頃の子供たちを羨ましく眺めていた。 『どうして僕は、友達を作っちゃいけないんだろう。どうして僕は、遊んじゃいけないんだろう』  それを聞くことすら、怖かった。  返ってくる答えがどんな言葉でも受け止めたくないと、子供心に感じていたから。 『ただ、体の中に神様がいるだけ。そういう体質なだけなのに』  生まれた時から直日神は直桜の中にいた。  他の惟神が命を落とすかもしれないような神降ろしの儀式をしているのに、直桜には必要なかった。 『どうして、あそこまでして、惟神を生み出さなきゃいけないんだろう』  その疑問は特に、従姉弟の律の顔を見るたびに浮かんだ。   左目を抉って、綺麗な顔に傷を付けてまで維持しなきゃいけないのだろうか。神様は、そんなに大事なんだろうか。 『吾を自らに溶かせ、直桜。さすれば今より楽になる』  歳を重ねる度、集落の異常性に確信を持ち始めた。惟神の因習から目を背けるようになった頃、直日神がそんなことを言うようになった。 『そうじゃない。直日がいなくなればいいなんて、考えている訳じゃない』  むしろそれは、直桜にとって恐怖だった。  たった一人の理解者で友達である直日神が消えてなくなってしまったら、生きる糧がなくなる。  寄り添って抱き締めて、頭を撫でてくれる優しい手に、消えてほしくなかった。 『異端、忌子、災禍の種。お前なんか、産まれてこなければよかった』  直桜を神様として崇め、手厚く扱ってきた集落の大人たちの中で唯一、八張家の嫁が直桜にそう、言い放った。  あの時の久我山あやめは、どんな顔をしていただろうか。 (一体、どんな気持ちで、俺にあんな言葉を吐き捨てたんだろう。考えたこともなかったな)  あの頃の直桜は、あやめの言葉を真っ直ぐに受け止めた。 『自分が災禍の種なら、こんな力は使わないほうが良い。普通に紛れて、誰にも迷惑を掛けずに生きよう』  あの時は、普通という言葉の意味すら、考えもしなかった。  きっと、悲しかったし苦しかった。そんな自分の気持ちすら、見ない振りをした。 (普通……、普通か。俺の今の普通は、護と直日と一緒に生きること。おはようとおやすみが言える毎日を繰り返す平穏を守ること)  浮遊する体が、流れる思い出と共にゆっくりと堕ちていく。   (昔の思い出なんて、ちょっと前なら考えるのも嫌だったけど。なんか不思議だな)  今は素直に向き合える。  転んでも泣いても喚いても、寄り添って支えてくれる人がいるから。 (護は俺に、普通を諦めなくていいって言ってくれた、初めての人だった。逃げても良いって言われたみたいで、安心したんだ)  特別でいなくていい。只の人でいい。そう、言ってもらえた気がした。  初めて、本当の心に寄り添ってもらえた気がした。他人の心なんて、簡単に理解できるものじゃない、それでも。 (理解なんかできないままでも、丸ごと全部包み込んでくれてるみたいで、心地よい)  理解しなくていい、救ってくれなくていい。  ただ、傍にいてくれたら、それでいい。  諦めないでいて隣にいてくれたら、同じ熱量で想いを返せる。 (直日だって、そうだろ。ずっと俺の中で、一番近くで、寄り添って包んでくれていたのは、直日だ)  心の奥の最奥に、堕ちていく。  真っ黒い闇の中に横たわった直日神に黒い何かが纏わりついている。 「惟神を殺す毒。人に作用しないなら、殺す対象は、神だ」  神を殺そうなんて、よく考えたものだと呆れる。  直桜は直日神に纏わりつく黒いモノに手を伸ばした。   「直日!」  直日神が薄らを目を開いた。 「直桜、吾を溶かせ。さすれば、今より楽になれる。外にも出られる。護に、会えるぞ」 「嫌だって、何度も言ってる。この黒いのどうにかするから、直日はそのままでいてよ」  黒い何かに触れる。  ぐにゃりとして手応えのない感触だった。泥を手で握ったような感覚だ。 「これが毒? 呪詛っぽくはないよな。一体、何でできてんだろ」  泥を避けるように、黒いモノを掻き分けていく。 「普通が欲しければ、吾を封じよ。護なら、それができる」 「普通はもう要らないって話しただろ。俺が欲しい平穏は、直日が居なきゃ成立しないんだよ」 「吾を溶かせば、神力は残る。直桜が神そのものになる」 「だから、それはもういいって。さっきから昔の話ばっかり……」  よく見ると、直日神の目が虚ろだ。 (さっき通ってきた俺の記憶、俺じゃなくて直日だったのか? もしかして、混乱してる?)  一体、どんな呪法を使えば、神をここまで弱らせる毒が作れるのか。  久我山あやめの執念に辟易する。  直桜は自分の手に残っている黒いヘドロのような何かを眺めた。 「毒でも呪詛でも、直日《神》を縛ってるって事実に変わりはないよな。封じの鎖みたいなもんだ。だったら」    目を閉じて、強く念じた。 (護、聞こえたら、こっちに来て。俺と一緒に、直日を助けて、護)  神紋を通してなら、護に直桜の声が届くはずだ。  鬼神である護なら、直日神を縛っている毒を解けるかもしれない。 「! 直日!」  直日神の体が黒い闇に沈んでいく。  直桜は必死に闇を掻き分けて、直日神の体を掴み上げた。 「直日は祓戸の頂点の神だろ。この程度の毒にやられんなよ! 俺の普通は直日がいる日常だ。直日にとって、俺は必要ないのかよ!」  直日神が閉じていた目を開けた。 「直桜、吾の可愛い直桜。泣くな」  ゆっくりと持ち上がった指が、直桜の涙を拭った。 「泣いてるけど、泣いてない! 今は自分のこと考えろ! こんな毒、さっさと抜け出して、いつもみたいに余裕で笑ってよ!」  両手で黒い泥を必死に掻き分け、退ける。  ようやく見えたもう片方の腕に手を伸ばした。

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